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KnoNの学び部屋

落ち着きのない大学院生が専攻に関係ない(むしろそっちのけで)学んだコトを記録しておく場所

知の編集工学 その1

◇情報と交流 2.『知の編集工学』

昨日はサークルの新入生歓迎会がありました。

もう二周りも年下の人たちが大学に入ってくるようになってしまったのかと思うと、あまり真面目ではなかった自分の学部時代を思い出してなんとも歯がゆい気持ち。

 

4年で就活中の後輩に自分で言ったことですが、「まだまだ20代も30代もある」と思い直して前向きにやっていきたいです。

 

今回からは

知の編集工学―情報は、ひとりでいられない。松岡正剛、1996)

の文庫版

知の編集工学 (朝日文庫)松岡正剛、2001)

をやっていきます。

まずは

第一章 ゲームの愉しみ

から。

 

知の編集工学 (朝日文庫)

知の編集工学 (朝日文庫)

 

 

 第一章 ゲームの愉しみ

「編集」とはなにか

 表題にもある「編集工学」。ここで使われている「編集」という言葉は、いわゆる本や映像の編集というような意味に限定されていない。

 まず著者がどのような行為を「編集」と考えているか確認する。

映画監督の黒澤明はつねづね「映画の本質は編集である」と言っている。国立民族博物館の梅棹忠夫元館長はずいぶん前から「編集という行為は現代の情報産業社会の夜明けを象徴する」と主張してきた。神戸製鋼ラグビーを七連覇に導いた平尾誠二は、「ラグビーは編集だ」と表明した。

→人とボール、人と人の関係性の編集、情報の編集が文化を成熟させてきた、繋ぎ合わせることによりそこに意味が生まれる。「編集」という概念は様々な行為を表しうる。

 

 世の中に膨大に存在する情報を扱うとき、それを生のままで扱う(扱える)ことはすくない。世の中のメディアがそうであるように、様々な都合や事情を勘案した「使いやすい」情報に加工(=編集)したものを扱っている。

ようするに、編集というしくみの基本的な特徴は、人々が関心を持つであろう情報のかたまり(情報クラスター)を、どのように表面から奥にむかって特徴づけていくかというプログラミングだったのである。

 こうしてみると、編集とは「該当する対象の情報の構造を読みとき、それを新たな意匠で再生するものだ」ということがとりあえず分かってくる。

 

 ……このあたりは実感として非常に良く分かる。

 上の引用で言及されている「情報クラスター」は自分で考えるときには「コンテクスト」という言葉を使って説明している。

 例えば机の上に転がっているシャープペンシル一つとっても、色・形・素材といったモノとしてのそれに付随する情報だけでなく、使い込まれ具合といった使い手に結びつく情報、あるいは原価や販売価格といった商売に結びつく情報さえも同時に内包している。

 それらのさまざまなルートでの「コンテクスト」が一つのモノとして結実してここに存在している訳だ。

 

……ここまでが「該当する対象の情報を読みとき」の部分だと考えられるが、「新たな意匠で再生する」という部分がピンとこない。読み進めていけば分かるのだろうか。

 

物事の背後にある情報を「連想」する

 編集は誰の中にもひそんでいる。著者は特に「連想ゲーム」という実にシンプルな遊びを通じてその本質が現れると考えている。

 連想ゲームという遊びがある。

 何人かのメンバーが並んだり輪になったりして、最初の一人がおもいついた言葉(フレーズ)を次の者に伝えると、二番目のメンバーがその言葉から連想できる言葉をおもいつき、されに次の者に伝えていくという遊びだ。

……これはまことにたわいないゲームだが、よく考えるとここから学ぶべきものがある。

この「学ぶべきもの」とは次のようなことだと述べられている。

  • ひとつの言葉には周辺領域が広がっていて、そこにはたくさんの似て非なるイメージがぶらさがっている。
  • ひとつの言葉はつねに別の何かの言葉とつながろうとしている。
  • 我々のコミュニケーションはもともと連想的な繋がりを媒介にしているのではないか。

 

……筆者は常々「想像力/Imagination」を働かせることが大事だと考えている。

 なにかしらのヒト・モノ・コトに対し、「どれだけの可能性をイメージできるか」「どうすればそれのポテンシャルを引き出せるか」を考えるということだ。

 「ひとつの言葉には周辺領域が広がっている」という部分はここに対応しているような気がする。ひとつの言葉の裏側まで想像する。そこにあるだろうことまで含めて考える。

 

言葉を実用する仕組み

 この仕組みは一筋縄でいくようなものではないが、おおざっぱに説明すると次のようになるらしい。

  1. 単語の目録>とそれに対応する<イメージの辞書>を形成する
    →「言葉⇔記号」の対応のペアを増やしていく。
  2. ルールの群>を習得もしくは顕在化する
    →言葉の「使い勝手」のようなもの。先天的なものか後天的なのもかは議論が分かれる。
  3. これら3つを駆使して、次々と"関係"を生成できるようになる。
    →「見えない情報連鎖」が起こっている。
    ⇒これを自覚的に活用することこそ「編集の技術」というべきもの。

……ここの<ルールの群>という概念はよくわからない。というか、ルールというより作法といった方が個人的にはしっくり来るのだけど、どうだろうか。

 

遊びの本質は編集にあり

 子どもたちは身近にあるいろいろな物から「遊びの可能性」を引き出している。これは「編集」に他ならない。

 ここでロジェ・カイヨワ(Roger Caillois)による遊びの4つの類型について考えている。

  • アゴーン:競争
  • アレア:偶然
  • ミミクリー:模倣
  • イリンクス:めまい

(参考 ゲーム - Wikipedia

 

 これらはいずれも編集的であり、とくに「自己編集性」という動きが顕著に現れている、らしい。

 また共通して「パイディア(即興的興奮)」と「ルドゥス(無償の困難への志向)」という共通項もある、らしい

→『編集工学では、身体が興奮したりスピードに乗るのと似て、アタマの中の情報回路そのものを加速するパイディアとルドゥスが芽生える』

 

……このあたりいきなりテクニカルタームが出てきてよくわからん。

「遊びの本質は編集にある」ということだけ押さえておけばいい気もする。

 

情報はひとりではいられない

 遊びと編集が不可分であるということを説明するために、もうひとつ、「連想ゲーム」よりはすこし複雑になったエディトリアル・ゲームに付いて考えてみる。

ミメロギア

  1. ディレクターにあたる人が「適当な言葉のペア」を書いた紙を参加者に配る。
  2. 参加者はそれに「それぞれの対比ができるだけ強調されるような言葉やフレーズ」を書き込んでいく。
  3. みなでそれそれにコメントしあって楽しむ

 →これは「対比と連想を楽しむ」ゲームである。一対の言葉のイメージは、我々をその情報の行き先に巧みに誘導していく。

⇒言葉という点が2つ集まり、線となって方向が生まれる。上手くその線に乗れば対比を強調するフレーズに行き当たるのは容易い。

 

 このゲームで面白いことは「何がデキが良くて何が悪いかは、すぐにメンバーの中で自然と評価の基準ができてくる」ということである。

→権威や他者が一方的に評価を下すのでもなく、自発的に相互批評性が発生してくる。

 

⇒それぞれに「ふさわしい言葉」「ふさわしくない言葉」があり、それはメンバーの中でなんとなく了解が取れているということは、「言葉それ自体」にふさわしさの基準が含まれている?

→『Aの情報はもうひとつ別の片割れBの情報を求めて、その方向にむかって遊びたがっているように見える

 

……小説を書いているときに「ここにぴったりと嵌る言葉・文・表現を探す」という感覚がある。あるいはプロットの段階においても「ここにあるべきイベント」という感覚が。

 それまでの、自分が表現したいと思っている情報が、「ふさわしい情報」を求めている、という風に言い換えられるということか。*1

 

人間の「学び」

 コンピュータが単なる計算機から人工知能を含む領域にいたり、性能が飛躍的に増している。しかし依然として人間との間には大きな隔たりがある。

⇒この本の初出は1996年。20年近く経過し大きく状況は変わっているはずだが、どうだろう。

 

(コンピュータと比較したときの)人間の能力の特徴

  • 過去の経験を生かして情報を処理・編集しながら、適切な表現様式を選択できる。
  • 随時、情報伊処理に応じた役柄を演じ分けられる(=役柄の編集)。
  • 全体と部分を適当にとりかえながら判断を進めることができる。
  • 状況に応じて問題解決のための方法をたえず発見的に編み出すことができる(ヒューリスティック;heuristics)
  • 他、いろいろと

 

→人間とコンピュータを比較し、その差を埋めようとするのではなく、人間に潜む能力をもう一度考え直した方がおもしろい展望に繋がるのではないか?

 

 例えば「ニューロ・コンピューティング」という分野が盛んだったことがあった。

 「脳には直列型の論理計算と並列型の直観思考がある」と考えそれを再現しようとしたのだが、(当時では)上手く行かなかった。

→2つの思考パターンは単純に分けられる物ではなかった、あるいは「私たちの学習能力はじつは対話型で、かつ遊び的」であるところを見落としたことに原因があるのでは、と考えている。

 

学習とは、自分が学習したいという欲求を満たすべき「舞台の設定」によって、いきいきと駆動をはじめるものである。……そこで何がおこるかといえば、自分の学習の相手をすばやく見出し、その相手と対話をするのだ。

……これが何を告げているかというと、私たちは学習にあたって、その学習の相手になってくれる"もう一人の私"を用意しているということなのである。

 ⇒例えば今の「学び」のコトを考えると、僕は本を通じて松岡正剛と対話をし、相手の考えを自分の考えと照らし合わせながら進んでいる、ということになるのだろうか。

 

【今回の三行まとめ】

  • 編集とは「該当する対象の情報の構造を読みとき、それを新たな意匠で再生するもの」であり、それは普遍的に行われている営みである。
  • ひとつの情報はその背後に非常に大きな周辺領域を持ち、そこにある情報と結びつきたがる性質を持つ。
  • 人間の「学習」は広義の"もう一人の私"との対話と通じて行われる。

 

【今回の宿題】

  • 「新たな意匠で再生する」ことの理解
  • <ルールの群>の理解
  • 「パイディア」「ルドゥス」の理解
  • 「対話型の学習」の理解

 

……うーん、やっぱりむずかしい。

 実感としては普段考えていることと通じる物があってうなずいちゃうんだけど、「他人に説明できるように」理解しているかと聞かれると自信がない。

 最初の章ということで多分全般的で抽象的な話が多かったと思うので、先の章で理解できればうれしい。

 

……内容も形式も経済の話とは違うので、結構手間取ってしまいました。まあ、慣れですな。

 次はもうちょっとコンパクトにまとめたいです。

 

それでは

 

KnoN(120min)

*1:余談になるが小説(というかストーリー的表現全般)について、その本質は「読者に与える情報を制御する」ということだと思っている。