知の編集工学 その2(後編)
なんだか寒いと思っていたら雨が降っていました。
こういうシトシトと降る雨は割と好きですね、落ち着いた気分になれる。
知の編集工学 (朝日文庫)(松岡正剛、2001)
の
第二章 脳という編集装置
の続きから。
「情報は生物からやってきた」
私はたったいままで、分節化がいろいろのジャンルにあてはまる編集方法の基本になるということを説明してきたのだが、これは「情報は分節化をルーツにしている」ということを教えていた。ではいったい、このようなクセを本質的に持っているらしい「情報」はどこからやってきたのだろうか。
著者は自ら立てたこの問いに対し、このように答えている。
ずっとずっと前に、情報は生物からやってきたのだ。分節化されることが好きな「情報」は、生物の歴史の中からやってきたのである。
これがどういうことなのか、著者の仮説を交えながら確認する。
前提として、生物は情報の塊である、といえる。生物は情報そのものであり、生物の種とは、それぞれの生物たちがどのような情報編集をしているかという違いである。
⇒生物たちは自然環境の中から「自分に必要な情報」を選り分け、利用して生存に役立てている。情報の選別、つまり分節化が編集の本質であることはすでに確認した。
生命の発生は情報様式の発生である、と著者は考えている。
- 原始地球のどこかで、「生命のメタ・プログラム」ともいうべき情報コードが転写可能な物質に付着した。
→この「生命のメタ・プログラム」の由来や正体については追究しない。 - そのメタ・プログラムを保護するために、ポリマー型情報高分子としての生体膜が作られた。
→この生体膜は情報透過性を持つ。
⇒冗長性により情報を保護するということだろうか……。 - 生体膜がそれぞれの事情に応じて発達し、「情報の維持と保護のための様式」として生命が発生した。
→情報が生命に先行する。
……概念的すぎて実際にどのような状況になっているのか想像しにくいが、言わんとすることはなんとなく分かる。DNAやRNAの話を考えると「生体が情報を運ぶ器」と考えるのはそれなりに説得力があるように感じられる。
ただ気になるのは、現在の分子生物学界隈でこの考え方がどのように受け止められているかというところだな。
DNAはアデニン:A、チミン:T、シトシン:C、グアニン:Gのたった4種類のコード(塩基化合物)からなる二重螺旋だが、1個の塩基を1ビットと数えれば、DNAに含まれる情報は60億ビットにも相当する。
(これが現代の情報科学においてどれくらいのスケールにあたるのかは、門外漢である筆者にはいまいちピンとこない)
生物たちはこうした量の情報を、やはり分節化することによって整理ししている。その仕組みは次のようなものである。
- 生体内情報Aと外部環境情報A'を紐付けし、その対応関係をひとつの分節として認知できるようにする。
「つまりは、驚くべきことに、「外」の花の蜜と「中」の昆虫のセンサーは情報化学的には同じものだという子のなのである。こうして、外部環境から得られる情報は、これを編集する体内のプログラムとの相互作用関係に入っていく」
-
このような過程を通して生物たちは独自の情報化学の文法(作法)を形成する(「分節化は情報に先行する」)。
主語となりうる"仮の中心"としての自己の設定が必要とされ、<情報自己>が生まれる。
→生物学で言うところの「自己組織化」のプロセス
→「柔らかな、変換可能性に富んだ"動的な自己"だったと思われる……」 - 情報の分節化と文法が洗練され、より高度な情報も扱えるようになりつつ現在に至る。
……こっちはますますわからん。「情報と体内プログラムとの相互作用関係」から分からないし、"仮の中心"というのもわからない。当然"動的な自己"というのも分からない。
……まあいいや、あとから見返したときに「こういうことを言っていたのか」になっていることを期待しよう。
記憶と再生のメカニズム
ここまで「情報の発生」について掘り下げてきた。その過程で起こった「情報編集の仕組み」には、大きく言って3つの起源がある。
①遺伝情報
→すでに述べた。
②免疫情報システム
→「自己」と「非自己」を正しく認識しなければ免疫は上手く働かない。
③ 中枢神経系の発達
→中枢と末端に分化した神経系の、中枢編集装置としての「脳」。
この脳のはたらきのなかで、編集技術にとって注目すべきことは、記憶と再生のメカニズムである。
→記憶にも様々な種類があると考えられている。長期記憶、短期記憶、エピソード記憶、リハーサル記憶……。
⇒脳は日々受け取る様々な情報を<圧縮>して記憶として留めている。
長期記憶の最も重要な特徴は「意味的である」ということだ。
→感覚的な情報が「意味」のシステムと結びついたときに、長期的な記憶として保存され、編集の積極的な対象になる。
⇒「意味」があることで<意味単位のネットワーク>の中に位置づけることが可能となる。
<編集>の仕組みに照らした記憶のメカニズムに関する重要ポイント
- 記憶の前哨戦では「注意」が重要な契機を作っている。
⇒「注意」したもののみが<編集>の対象となる。
→注意の構造には記憶システムの前駆性が隠れているはず。 - 記憶と再生には「カテゴリー」「プロトタイプ*1」の役割が大きい。
→そもそも記憶の再生というのは「外部からの情報が自分の中のどの情報と似ているかカテゴリーやプロトタイプを探し出す」ということだと言える。 - 「フレーム(スキーマ)」が関わっているかもしれない。
→フレーム理論においては、フレームにはデフォールト指定による空欄(予期されている「埋めるべき場所」?)があると考えられている。
→ある程度外形が固まっているという面から「記憶のレパートリー」として考えることができる。 - <情報圧縮>のメカニズムが解明されていない。
→「記憶の構造に情報をあてはめている」のではなく、「編集の構造を情報によって記憶していく」のではないだろうか? - <情報のモダリティ(様子)>が関与しているかもしれない。
→他人の様子、過去の自分の様子、あるいは<構え>なども関係していそう。
⇒何かを思い出そうとするときに、そのときと同じ体勢をとると身体が脳を刺激して思い出しやすくなる。そういうことだろう。
……<編集>のためには様々な情報を手元で扱えるようにしなければならない。そして「手元で扱える」ということの実体が「記憶し、再生する」ということなんだろう。
人間が情報をどうやって内部に保存しているか知ることは、それを活用することを考える上で確かに大切な側面だと言える。
精神の外化と編集可能性
脳とはやはり精神(心)の座を管理するセンターである。
→脳が作り出している精神は、ハードウェアとしての脳の設計よりも、そこで動作するソフトウェアによると思われる。
→「私」というソフトウェアがもっと自己参照的な実験に入っていくべきだろう。
→編集の思想は<自己編集化>を大きなテーマとして据えるべきと考える。
⇒以前に触れた、「役柄の変更」とか「ヒューリスティック」のことを指しているのだろう。
すでに精神そのものが、私たちの脳の対象ではなく、脳そのものであると言わなければならなくなっている当体なのである。精神という別物があるのではなく、脳の編集システムを精神と呼ぶ必要が出てきている訳なのだ。
そのうえしかも、その精神は脳という編集システムによって「私」の中に組み込まれているものである。なんとかこのいりくんだ関係を、いりくんだ関係を活かしたままで脳の中に脳の外に編集してみるしかないだろう。
また彼(室井尚)は、「精神の外化とその編集可能性という認識は、精神の自由な形態=構造を様々な場所につくりだすことができる可能性を持っているのである」と続けている。これも同感だ。精神も脳も、そこが編集的であるからこそ、その本質的な部分を外側にも転写しているはずなのだ。
(括弧は筆者)
……「精神の外化と編集可能性」という部分について、全く別のところで似たような主張を目にしたことがある。いわゆる「ライフハック」系の本だったのだが、「オンラインストレージサービスの発達により、自分の思考や記憶をどんどん外部に記録して客観的に扱えるようになってきている」というような内容だった。
「知的生産の知恵」を実践面から追求していっても、このような思想的な面の一端に行き着くということなんだろうか。なんとなく一致が思い出されたのでメモしておく。
【今回の三行まとめ】
- 「考える」とは、脳の中の<意味単位のネットワーク>を進むこと。
- 世界は分節することによって意味を持ち、<情報>となる。
- <編集>についえ考えるためには、脳の仕組み、とくに記憶と再生について理解を深めなければいけない。
【今回の宿題】
……前編に続いて「わかるんだけどわからない」みたいな感触。【まとめ】もそれを反映していまいち要領を得ないものに。宿題もたくさん。
これを人に説明できるくらいに整理できたら「理解した!」と言えるんでしょうけど、まだ先は長そうです。
それでは
KnoN(120min)