知の編集工学 その3(前編)
なんとなく最近の集中力欠如の原因が分かった気がする。
この記事書いたらさっさとそれを取り除きに行こう。
というわけで今日も頑張ります。
引き続き
知の編集工学 (朝日文庫)(松岡正剛、2001)
の
第三章 情報社会と編集技術
をやっていきましょう。
※今回は情報通信技術(いわゆるICT)の話題が多いのですが、初出の1996年当時とはそれこそ状況が様変わりしているので、そこのところは自分でギャップを埋めつつ見ていって下さい。
第三章 情報社会と編集技術
再び情報と文化を結びつけるために
……すでに日本の社会は情報化されてしまったのである。けれども、ここが重要なところなのだが、「情報化」されたからといって、「編集化」されたとは言えない。そのことについて考えたい。
→<情報化>と<編集化>は一体であるにもかかわらず、日本においてはハードウェアの情報化ばかりが注目され、ソフト面での編集化が不十分であった。
→情報化と編集化の統合には<情報文化技術>という考え方が有効になる。
人間の歴史において、ハード技術とソフト技術はつなぎあって発展してきた。
→石器や土器、染織や建築などのハード技術は、それらのハードを必要とする祭事や芸事などの文化的なソフト技術に結集してきた。
→しかし近代国家の出現とともにこれらの分断が起こる。
軍人と文民の分離、経済と政治の分離がハードとソフトの分断を促進した。またマス社会(大量生産方式、大衆化など)の発達も影響した。
決定的な分断のきっかけはコンピュータの出現とその普及。
→「数値化されたデータによって価値を判断する」という方向性と、エレクトロニクス技術の日進月歩の発達は「ソフトなきハード」をもたらした。
⇒ゲーム業界もPS3あたりで「グラフィックばっかり綺麗になって肝心の内容が面白くない」とか言われていたような。「3D」を売りにした映画とか、一枚絵的な絵しか書けないマンガも同じか。
ではなぜ現代のIT社会において情報と文化の結びつきが上手く行っていないのか。
著者はそれを、今日の情報技術は「バラバラなメディア技術の足し算」ですまそうとしているからだと考えている。
→過去の「マルチメディアの掛け算」の歴史を振り返ってみる。
ずっと前からマルチメディアだった
- オーラル・コミュニケーション(口伝)の時代
→ストレージかつエディターとしての「語り部」が情報を伝えていた。 - 文字の時代
→「物語」という様式によって古代の情報をファイリングしていた(=叙事詩?)。
→文字に限らず、絵画や建築などにストーリーを込めることで多くの情報を伝えるマルチメディアシステムとしていた。 - ウェブの時代
→(1996年当時において)ウェブにある情報はほとんどが文字である。そこに「分化の特徴」といったものは見られない。
→インターネットは充実した「世界」ではなく、新たな「世界状態」という可能性を持った未然世界なのである。
⇒2014年になった現在では、「世界」になっているのかな?
……「世界状態」「未然世界」という概念が何を指しているのか分からない。「かつて文字は呪能そのものであり、書物は世界そのものであった」という部分との対応なんだろうけど、そもそもこっちの方の意味もよくわからない。
むずかしいなー。
書物が「世界」となった時代、情報の伝達者が「語り部」から「写本生」になったときの状況を考えてみよう。
写本技術のセンターも気宇壮大だった。センターは西も東も主として修道院や寺院の中に置かれたが、そこは世界編集室ともいうべきものだった。
(傍点の代わりに強調)
→こういうところでは、本は声を立てて読まれていた(音読)。文字と音声を結びつけるマルチメディアである。
マルチメディア的な変革としては「系譜」の発見、「劇場」の活用、というものも上げられる。
- 系譜の発見により、家系という時空間の広がりが知覚されるようになった。それは血縁という各地に広がる情報のネットワークの再発見も意味する。
- かつて演劇は「祭政一致型のドラマ(叙事詩)」であった。それが「新たな世界(フィクション)」を構築する場となり、舞台、役者、脚本などの要素を通してイメージの情報世界を生み出していくようになった。
⇒過去の再生ではなく、まったくの虚構が(演劇という)現実として目の前に立ち上がってくる。
このように以前から情報文化を扱う際には様々な面からのアプローチを掛け合わせたマルチメディア性が取り込まれていた。
この失われた「マルチメディアの掛け算」を取り戻す方法を次節から考えていく。
コミュニケーションの本質は「意味」のやりとり
世界が携帯電話でつながれようと、またインターネットでつながれようと、そこにどんな「内容」が流れるかということは規制しきれない。そもそもネットワーク中の「悪」を排除することは不可能なのである。
→世の中は常に「情報内容」を管理したがっているが、内容管理システムは本質的にメディアの特質とはそぐわない。
→近頃(くどいようだが1996年当時)ようやく「コンテンツ・ビジネス(=情報内容を生産し、管理する)」という分野が認知され、ハードの奥にあるコンテンツの存在が意識されるようになってきた。
コンテンツ=<著作型編集的創発性>に関するリソース
→コンテンツの奥には思考や連想や身体感覚があり、つまり「人」がいる。
⇒「作り手の人間性」が拭い去り難くある、ということか。
このことをふまえ、情報内容の編集過程のレンジ(の一部)を大雑把に書くと次のようになる。
身体→知覚→イメージ→言葉→表現→コンテンツ→メディア→ディストリビューション(流通)→ソフトウェア→インターフェース→ハードウェア→インフラストラクチャー→ネットワーク→地域→国→地球
……うーん?
「身体」から「ディストリビューション」まで、「ソフトウェア」が「インターフェース」を介して「ハードウェア」的な要素に変換される、というところまではなんとなく分かる。
でも「インフラ」?「地球」?
一つ前の要素と繋がっているのは分かるんだけど、こうして一列に並べられると違和感がある。
この長いレンジのループをぐっと凝縮していくと、そのミニ・ネットワークの各所にはある種の「原理的なコミュニケーション・モデル」が機能しているはずだという見方が出てくる。
→「交換モデル」のことだが、著者はこの見方に懐疑的。
土台となる考え方は、
シャノン=ウィーバー・モデル
=送り手の発信源から発した一定のメッセージが、まずトランスミッターをへてシグナル化され、途中でノイズの擾乱を通過しつつ、レシーバーをへて目的の受け手に達する。
実際の社会でのコミュニケーションを考慮し、
社会学のコミュニケーション・モデル
=送り手と受け手を感情や意識を持つ人間とし、変換と受信の過程でそれぞれエンコード(記号化)、デコード(脱記号化)しているという要素を加える。
というようなモデルがある。
これらを不十分と考える著者が提案するモデルが、
編集の贈り物交換モデル*1
=情報コミュニケーションのプロセスを「メッセージの交換」ではなく、「エディティング・モデルの交換」と捉える。
→私たちは情報のやりとりのプロセスで、互いに似ていそうだと思われる"編集の贈り物"を適当にあてはめあっている(<編集的相互作用>)。
→「意味の交換」がコミュニケーションの本質。
まだよくわからないので、本文から著者の説明を引用してみる。
シャノンが考えた通信モデルでは、確かにメッセージは等価交換されるようになっている。ただし、それは「A」の音は「A」の音に、「はい」の形は「はい」の形に、という等価交換だ。ようするに意味の中身は関係ない。……
しかし、私たちのコミュニケーションは意味を写像的に交換する。
ということは、エンコードされた言葉や身ぶりは、いったん意味という市場に放り出され、その「意味の市場」から、そこにいあわせた相手が自分に必要な意味を引き抜くという格好になっている。
(傍点の代わりに強調)
⇒編集構造が情報交換に先行する。
……「写像的に」ということの指す内容が分からないが(数学用語だっけ?)、「自分の発信の表しうる「意味」の中から、受け手が状況にふさわしい「意味」を選択的に読み取って情報をやりとりする」というふうに理解した。
さてここまで情報と編集(文化)の関わりについて見てきた。
現実に反映させるためにより実際的な「経済と文化の融合(再統合)」ということについてこれから考えていくのだが、それはまた明日以降。
……内容の理解も甘いし、説明も要領を得たものになっていないけど、体調もイマイチなので今日はここまで。
ちょっと頭が痛かったり、のどに違和感があったり、全体的にだるかったりするけど、どう考えても風邪の初期症状なので初動が大事です。
先週も同じようなこといってた気がするな……。ここ数日急に気温が下がって、体調管理に気をつけないと。
明日は月曜日なのでまた雑記です。内容は考え中。
それでは
KnoN(100min)