知の編集工学 その3(後編)
お昼はカルボナーラを作りました。
なんちゃってではなく、生クリームも使ったちゃんとしたやつです。
美味しいのは美味しいけれど、濃厚なやつを多めに作ってしまったのでさすがに最後の方は飽きてしまいました。もっと上手い具合に味付けできれば良かったのですが、もったいない。
反省は次にいかしましょう。
引き続き
知の編集工学 (朝日文庫)(松岡正剛、2001)
の
第三章 情報社会と編集技術
の後編をやります。
※この章の話題は、それをめぐる社会の状況において初出の1996年と2014年現在で大きく異なっています。そのことを念頭に入れて「当時はそう考えられていたが、今はどうなっているのか」ということをイメージしつつお読みください。
※今回長いです。いつもの倍以上ありますが、分割もしにくかったのでひとつの記事です。読みにくくてすみません。
ハード、ソフト、またハード
経済文化はひとつの概念だ。その経済文化はネットワーク状になっている。マルチメディア社会とはそのような「ネットワーク経済文化」が進む社会のことである。そしてそこでは「内容(コンテンツ)」が交換されるたびに経済行為を生んでいくということが起こってほしい。……しかし、そのような期待とはうらはらに、業界は「内容(コンテンツ)」づくりよりも、あいかわらずハードづくりに熱心なのだ。
⇒2014年現在、コンテンツはフリー(無料)で配信・頒布し、集客による広告収入がメインとなるビジネスモデルが目立っている気がする。
「コンテンツの交換に経済行為が伴う」だと、オンデマンドの映像配信サービスとか? これも個人的には定額制見放題の方が有力に感じられるが、本質的には変わりないか。
⇒もうすでにハードからソフトの転換は済んでいると思う。さらに言えばソフトからハードへの揺り戻しすら起きている。
たとえば今ネットを中心とした産業の中心はGoogle(1998年創業)とAppleだが、特にGoogleは創業当初、完全にソフトのみを取り扱うビジネスを行っていた。
Appleも近年のブームの火付け役となったのは携帯音楽プレーヤーのiPodのヒットだが、それもプロダクトとしての優秀性というよりも、それによって得られる体験(ユーザー・エクスペリエンス)が消費者に受け入れらと見るべきだろう。iPhoneのi OSやMac OSも「体験」を重視しているのが感じられる。
ハード偏重だった業界の志向がソフト重視になり、改めて「ユーザーに新しい体験を提供するインターフェース」としてハードの開発が捉え直されているように思う。
⇒たびたび日本的ガラパゴスとよばれるものは、この「ユーザーに新しい体験を提供する」という視点が抜け落ちている気がする……。
貨幣とは言語であり、情報である
著者は経済と文化の分断についてこのように考えている。そして、それらを再び合一するためには考え方の転換が必要だと主張する。
経済を「交換行為を媒介にした財とサービスの編集プロセス」というふうにとらえなおし、その全ての過程に「経済文化の編集プロセス」が集中して表現されているとみなすのだ。
(強調は筆者)
この考え方を鮮明にするために、貨幣の扱いについて最初に検討する。
<ネットワーク経済文化>という考え方のもとでは、貨幣は言語のような役割をすると見ると良い。言語であるのだかから各国各民族で価値観がちがい、表現が違っている。ドルとマルクと円は。あたかもアメリカ英語とドイツ語と日本語のようなちがいにあたっている。
→「言語的活動性を持つ貨幣の本質を、もっと徹底して流通させるような新たな事態」として電子マネーが上げられる。
→電子マネーはインターネットという市場を流通する貨幣言語であり、編集工学的に言うならば<情報貨幣>である。
情報貨幣がインターネットをまわるということは、結局、情報に価値がついているということであり、したがって、情報のネットワーク性が市場の肩代わりをしうるということになる。
(強調は筆者)
⇒2014年現在、オンラインでの決済はそれこそSuicaやEdyのような電子マネーか、クレジットカードによる電子情報ベースの決済が主流である。どちらも「これこれの価値を持つ情報がやりとりされた」ということを「貨幣のやりとり」としているという面では、ここで説明されている<情報貨幣>に該当するのかもしれない。
このような仮説の元では「もともと市場が発生してきた背景にも、そのような経済文化的な特徴が潜在していた」という推測が成り立つ。
→つまり「市場はもともと物品と物品、物品と貨幣との交換だけでなく、最初から情報貨幣のようなものを案に交換していた」のではないか。
交換市場の中では「商品」だけでなく「貨幣」「奴隷」「情報」が取引されていた。
→ここでの「情報」は、より経済的な価値を持つ情報、例えば「借金の証文」や「手形」といった「将来的な金銭のやりとりを約束する情報」を含んでいる。
この「約束情報」こそ、商品や奴隷とともに(まさにインターネットのように)各地の商人が運びまわったものであったのである。それは一種の経済的な交換を前提にしたエディティング・モデルであった。
……やはり「言語と貨幣の共通性」がどの面によるものなのかがよくわからない。活動性?流通性?
⇒「電子マネー」それ自体は情報が貨幣と同様の価値を持つものとして扱われている現象として理解できるが、「言語的活動性を持つ貨幣の本質を、もっと徹底して流通させるような新たな事態」?
……最後の「エディティング・モデル」だという説明もすとんとこない。エディティング・モデルが何かというものの理解が不十分だと言う面もあるのだろうけど。
⇒前編の説明では「メッセージではなく意味を交換する」と捉えるために導入された概念だが、この場合何が「意味」になるんだ?
もうひとつの大事なこととして、「互いに交換し合う商品の価値を評定する第三者」が市場にはいたということがある。
→交換する2つのものの価値を釣り合わせる基準の担い手として、あるいは「約束情報」の信頼性を確認する証人として、それらに精通する役割が必要とされていた。
→著者はこれを「聞き耳を立てる第三者」とよび、互いの商品価値を新たな価値情報として編集する、最初の<経済文化のエディター>と見なしている。
経済文化の2つの歴史モデル:コーヒーハウスと茶の湯
明日のマルチメディア時代における<経済文化>を考えるにあたって、私がいつも重視している二つの歴史モデルがある。
それは、イギリスに発達したコーヒーハウスと日本に発達した茶の湯である。この二つはとびきりの経済文化のモデルであり、また比類ない編集空間だった。
(傍点の代わりに強調)
17世紀末のイギリス、コーヒーハウスでは5つの分野にわたる<情報編集>が実を結んだ。
- ジャーナリズムの創始
→欧州初の活字編集メディアとして情報誌の文化が生まれた。 - 株式会社の発展と保険システムの発明
→情報誌によって内外の社会情勢に関心を向けた紳士たちは、未知の経済世界への投資に興味の対象を移していく。店主がその元締めとして機関としての株式投資、保険のシステムが発達した。参照:ロイズ - Wikipedia - 政党および議会主義政治の形成
→政治家たちは党派ごとにお気に入りのコーヒーハウスを根拠地とするようになり、政策議論を闘わせた。政党としての共通政治意識と連帯感が形成され、議会主義政治の発展に繋がる。 - 広告の誕生
→不特定多数の人が集まるコーヒーハウスには数多くのチラシが置かれ情報を発信した。 - (合法・非合法を問わず)クラブと秘密結社の温床
→共通の関心を持つ人々が特定のコーヒーハウスに集まり、各種のサークルを結成した。
同様のことが日本の茶の湯でも起こっている。
コーヒーハウスに比べてずっと小規模だが洗練された空間であり、「茶の湯御政道」や「大名茶の湯」という習慣に結びついてる。
→とくに経済文化としての茶室・茶道具の編集が大きな役割を果たしており、ソフトとハードの両面に影響を与えた。
- 「好み」という独自のソフトウェア感覚の育成
→「自分好みの茶器を取り揃える」「茶室空間を自分好みに演出する」という<編集>のセンスが育まれた。 - 数多くの職能技能集団の輩出と技術革新
→優れた茶器や掛け軸、建築を生み出す源泉となった。参照:千家十職 - Wikipedia
コーヒーハウスや茶の湯には経済と文化を結びつけたことに目覚ましい特徴がある。しかもその形態は、クラブ型、あるいはサロン型の特別に工夫された空間によって支えられていた。
→「経済文化を生み出す空間のプロトタイプ」の存在を感じ取れる。
→「これは一種の経済文化のエディティング・モデルであろう」?
されに注目すべきこととして、コーヒーハウスや茶の湯には経済と文化をつなげる多様なエディターシッップが働いていた、ということがある。
→コーヒーハウスの店主、あるいは茶の湯の亭主が、自らの「好み」によって空間を編集し、演出していた。
加えてこの空間には「客」が<自己編集>をする余地がぞんぶんに保証されていた、ということも無視できない。
→コーヒーハウスでは客は自由に情報誌やチラシを読み、店主や居合わせた他の客との会話を楽しんだ。
→茶の湯では茶器や掛け軸、花などを話のタネとしながら、同じく会話を楽しんだ。
⇒ただそこにある体験を受け取るだけでなく、そこにさらに「自分」という要素を加えて相互に影響を与え合うことができた、ということだろうか。
⇒その場にふさわしい振る舞いをする、という面で「役柄の編集」にも関係しているかもしれない。
次代の経済文化モデルたち
18世紀の啓蒙主義と産業革命をへて、百科全書とマスメディアというモデルが生まれた。
百科事典自体は古代から継続的に存在していたが、フランスのディドロとタランベールこの時代の百科全書には、従来にはない特徴があった。
- 機械(=ものが作り出される仕組み)を扱った。
→知識と機械が初めて合体して語られうるということを示していたとともに、歴史の中に「システムが作動し始めた」という実感を人々にもたらした。
⇒んー?よくわからん……。 - マニュアル的な内容を含んでいた。
→技術マニュアルの記述を全領域に拡大し、リンクさせた。「これを読めばできる」という状況を生み出した。
またコーヒーハウス時代の情報誌が発展し、輪転印刷機の発明により日刊新聞が成立した。
→一日の出来事をダイジェストで紹介する<情報圧縮>の能力が発揮される場が生まれた。
こうした更なる発展を受け、19世紀には経済文化モデルは近代における頂点を迎え、万国博覧会と百貨店の登場として結実する。
→どちらも「世界を一堂に集めたい」というコンセプトを持っている。
⇒「現実の世界を編集して、ミニチュアサイズの手が届く世界を作りたい」というように換言できるかもしれない。
- 万国博→国家と民族の技能の祭典
- 百貨店→当時の近代社会が持ちうる贅沢の展示
→「欲望の展覧」という経済文化モデルとして説明できる。
そして「欲望の展覧」モデルは欲望の所有・拡大・消費へと猛烈に発達し、大衆消費市場の到来に至るのである。
インターネット時代の経済文化モデルを考える
さて、ここまで17世紀から近代までの経済文化モデルの変遷を説明してきたが、現代ではそれが途絶えている(経済と文化が分断されている)ということもすでに述べた。
1996年当時の想像力だけではなく2014年現在の実際を踏まえながら「インターネット時代の新たな経済文化モデルのプロトタイプ」について少し考えてみたい。
コーヒーハウス、あるいは茶の湯的な空間の現在での例というと、やはりSNS(Scial Networking Service)の発達が上げられるだろう。
古くはパソコン通信時代の掲示板から、筆者が体験したことのある物で言うならば2ちゃんねる、mixi、TwitterにFacebook、最近だとLINEもその範疇に入るだろうか。
→これらの「特定の場所(サービス)に人が集まって交流する」タイプのものをコーヒーハウス寄りだと考えると、ブログや個人サイトは「空間(ページデザイン)を自分好みに演出して来客をもてなす」という面で茶の湯に近いかもしれない。
これらのサービスは(SNSもブログも)基本利用料(登録料)は無料のところが多い。サービス内のリンクを辿り、新たなページを表示するたびに広告料収入が運営者に入る、あるいは利用者のデータを収集して提供することで収入とするビジネスモデルが一般的だろう。
→「コンテンツのやりとりのたびに経済行為が発生する」と言えるか? 利用者が自由に文化編集活動を行うと同時に、ビジネス的な面でもお金のやりとりが発生ししている。
→「利用者情報の扱い」については議論も多いが、これはここで話題とするには少し外れている気がする。
百科全書、あるいは万博的な「知を一堂に会す」という活動ではWikipediaを始めとする各種のWikiが公的なものから完全な趣味の領域まで広く生まれ日々編集されているし、百貨店の「欲望の展覧」ではAmazonなどを使えば居ながらにしてあらゆるものを買うことができる。
→そもそもGoogleの創業の志が「人類が使うすべての情報を集め整理する」というものであり、その検索エンジンの対象となる領域は日進月歩の勢いで拡大している。*1
かつてインターネット上にすでに存在している電子情報のみを対象としていたGoogleの情報収集は、すでに次元を乗り越え現実世界にあるものを積極的に電子情報化して取り込もうというレベルに達している。
曖昧でアナログだった<情報>を、すべて0と1に還元しうるデジタルの<データ>にしてしまいという欲望が果たされた先には、一体なにが見えるのだろうか。
「フラジャイル」な世界
新しい時代の経済文化モデルはどのようなもになるのか。著者は1990年の湾岸戦争、あるいは1995年の阪神大震災にそのヒントを求めている。多少長いが引用する。
阪神大震災のときに、パソコン通信とボランティアが話題になった。
政府や兵庫県や神戸市のデータベースや推定計算では、水や米が不足するということはありえなかった。それにもかかわらず、多くの被災者の手元には水も米も届かなかったのである。寝具ですら届かなかった。この隙間をパソコン通信とボランティアが埋めた。
このニュースは情報判断というものが、あらかじめ設定した「リニア(線形)な数値」ではまかないきれないのだということを示した。情報はどこかで太いリニアなパイプから、ノンリニア(非線形)な細い路地にむかってサッサッと走れるようになっているべきだった。これは新たな価値は「ノンリニアな現象」に潜んでいるというヒントなのである。
(強調は筆者)
→かつて情報インフラにはハード的な「強さ」(大容量、高速、広域)が求められていた。
→しかしこれらの事例は「柔らかさ」「弱さ」といったものが重要だと示唆している。
→<情報化>と<編集化>を一体化する経済文化のための技術は、むしろ「弱さ」をベースに設計されるべきではないだろうか?
著者はこの「弱さ」の感覚を「フラジャイル」(fragile)あるいは「フライジリティ」(fragility)という言葉で説明している。
→「壊れやすいからこそ、壊しにくい」という関係。「自分の弱さのレベルで対象と柔らかく接することで情報交換をなめらかにする」という発想。
いよいよ<編集>の思想の根幹に迫る概念が出てきた。最後に改めて著者の「宣言」を引用してこの長い章を締めることにする。
編集は勝利や結果や無矛盾を求めない。編集や葛藤や弱点や矛盾を新たな展望に変換するためのものである。なぜ、そんな風に言えるのか。編集は「弱さ」を起点に逆上するものであるからであり、しかも、「弱さ」は「強さ」の欠如ではないからだ。
【今回の三行五行まとめ】
- 情報と文化を結びつけるには「マルチメディアの掛け算」の発想が必要
- コミュニケーションの本質は「意味」のやりとり
- 「情報」と「貨幣」を共通なものだと捉えることで<経済文化>統合の下地ができる。
- 歴史を振り返れば多くの優れた<経済文化モデル>が存在してたことが分かる。
- <経済文化>のための技術は「フラジャイル」の視点から構想すべき。
……ボリュームがある分まとめの項目も多くなってしまいました。まあ、いいよね。
【今回の宿題】
- 「世界状態」「未然世界」の理解
- 「情報内容の編集過程のレンジ」の理解
- 「エディティング・モデル」の理解
- 「言語と貨幣の共通性」の理解
……やはり前半に偏ったか。特に「エディティング・モデル」という概念の理解がのちにちまで響いている感じ。早い時期に片付けておきたいけど。
……長かった。分割のしどころもないからひとつの記事に収めざるを得なかった。
それでも説明は明瞭で、(エディティング・モデルに言及している部分以外は)分かりやすかったのでむしろすっきりとした気分。
それに長くなった理由の大半は、自分の考えを多く書き入れたからで、「学んだことをアウトプットして考えを整理する」というこのブログの趣旨的にはむしろ望ましいことだったり。
今回で「第一部 編集の入口」が終わり「第二部 編集の出口」に移る訳ですが、第一部のまとめに一回使うかどうかを検討中。といっても夜にはやるので対して時間もないですが。
それでは
KnoN(180min)