知の編集工学 その4(前編)
健やかな目覚めのためには最低7時間の睡眠が必要。
……ちょい寝坊したのでぱぱっとやります。
引き続き
知の編集工学 (朝日文庫)(松岡正剛、2001)
の
第四章 編集の冒険
の前半部を。
第四章 編集の冒険
<編集工学>誕生のきっかけ
……私は麻布に引っ越し、自宅を仕事場にして犬と猫を同居させ、日本美術文化全集『アート・ジャパネクス』全十八巻(講談社)の編集構成と、および磯崎新さんと組んだプロジェクトのほかは、あまり頼まれ仕事をしないで、「方法の冒険」のための構想を練り始めた。そんなときである。ふいに迷いがふっきれたのだ。「私がめざしているのはやっぱり編集工学だ」と確信できたのである。
著者は10年続けた雑誌の『遊』を休刊したあと、組織を離れ個人として考えをまとめ直している時期に<編集工学>の確信を得た。そしてそれには次のような周囲の状況が関係していたと述べている。
- 思想の世界において、「ディコンストラクション(脱構築)」や「知識人の終焉」などの「知の組み替え」という動向が目立ってきていた。
→<編集>という現象が徐々に表に現れてきているように思われた。 - 生物学の自己組織化理論に新たな方向が提示されつつあった。
→自己組織化理論とは「生物のような生きた情報システムがどのように動的な秩序を形成しているのか」を説明する考え方。
→「プロセスの重視」や「自己参照性」といった編集的な特性を含んでいた。 - 認知科学あるいは人工知能の研究動向が面白い状況になっていた。
→「フレーム理論」や「自分という情報モデル」という発想に刺激を受けた。
その後、空海の編集技術に着目した仕事(『空海の夢』)を行うなどしながら、「乱舞する視点の多様性を誰かが編集することが望まれはじめている」と考えるようになる。
こうして本格的に<編集工学>の準備に取りかかることになったのだった。
……その後、講談社や偕成社の少年少女全集のたぐいをずいぶん読んだ。例の『巌窟王』や『ああ無情』といった名作だ。それらを諳んじるほどに読んだ日々が遠くなり、長じて岩波文庫で『モンテ・クリスト伯』や『レ・ミゼラブル』を読んでみて、えっ、こんなに長大な内容の本がどうしてあんなに短い名作文庫に縮約できていたのだろうか、という、"変身"に驚いた。
→岩波文庫で7冊にもなる『レ・ミゼラブル』が数十ページの絵本になるのは<情報圧縮>が働いているからであり、2時間の演劇やミュージカルになりうるのも<編集可能性>が行使されたからと言うことができる。
→「文化」というものの本質的な共用性や汎用性を表している。
物語が何度も編集され、文芸、演劇、ミュージカルとメディアを横断し、さらに新解釈や翻案が生まれる中で、変わらずに"保存"されているもの、変わらない"関係"がある。
→<エディトリアリティ(editoreality、編集的現実感)>が存在する。
……うっすらと感じてはいたが、改めて考えることはなかったので、目から鱗がおちるような気持ち。なるほどなー。
編集によって文化が伝播するのは、この<エディトリアリティ>の共用的な関係保存機能による。
→これは"原作のある文化"だけを対象とする訳ではない。人の毎日の出来事でさえ<情報圧縮>されて記憶されている。
→では、いったい自分がどのように編集しているのか、自分で知ることはできるのだろうか?
自らを<自由編集状態>にする
では、自分の中で進行している自律的な編集プロセスを、いったい私たちは自分自身でどのようにトレースできるのだろうか。これが、私が編集工学を本格的に準備するにあたってぶつかった最初の難関だった。
(強調は筆者)
→著者はこの問題を解決するために、奇妙なエクササイズを自分に課すことにした。
いままさに自分のアタマの中で動いている編集プロセスをリアルタイムで観察しようというエクササイズである。すなわち、自分のおもいが流れているままに、そのプロセスを同時に観察するということだ。次々に進む「注意」の移ろいを観察しようというのである。
(強調は筆者)
→実際に試してみると、すぐに焦点化や強調化が起こってしましい、「恣意的な追跡」を排除するのが難しい。あくまで「自発的な編集の流れ」を追う。
→コツは「自分自身を相当にゆるませ、フラジャイルな自由編集状態におく」ことと、「言葉によるラベリングを気にしないで進む」ということ。
⇒この「フラジャイルな自由編集状態」というのは、「散歩をしているときや風呂に入っているときにこそ良いアイデアが浮かぶ」という良くある言説のことを指しているのではないだろうか。あまり考えずにできることをしながら、アタマの中は自由に連想を膨らませ、意外な繋がりに気づいたりするという状況。
著者は次第にこの訓練を発展させ、「街中を歩き、常に適度な刺激に晒される状態でのプロセスを観察する」「他者と会話しているときのプロセスを観察する」ということも行うようになった。
→こうしたエクササイズの中で、2つのことを実感として得るに至る。
- それぞれの刺激の中で活性化された脳内の無数の<ハイパーリンク>の存在を背後に感じながら、思考や会話を前に進めていくという感覚(<編集的後景>)。
- 編集行為というものが「考える」ということを必要としない、「慣れ親しんだエディティング・モデルのハンドリング」という自他並列的な行いであること。
このような準備期間を経て、1987年秋に満を持して「編集工学研究所」が開設されたのである。
編集工学研究所のマザーコード
編集にはいろいろな多様性があり、何か特定の方法を編集と呼んでいるわけではない。
→その中でも編集工学研究所内で編集素材を大分類しているラフなマザーコードというものがある。それぞれの細かい分野に踏み込む前にそれを紹介しておく。
- 身体に起因するもの(character)
- 好みから発するもの(disposition)
- 直観あるいは啓示によるもの(vision)
- 学習性の堆積によるもの(lea)
- 表現構成が喚起するもの(elaboration)
- ゲーム適用によるもの(metagame)
- 図像にひそむもの(iconography)
- 物語が伝えるもの(narrativity)
- 歴史に内属するもの(metahistory)
- 合理的再現性によるもの(rationality)
- 日常性によるもの(life)
※テキストではそれぞれの例も併記されていたが、ここでは省略する。
編集工学の成り立ちと準備段階について説明した。次回からより個別的な手法について考えていく。
……基本的には著者(松岡正剛)が「どうして編集工学に取り組み始めたか」の説明で、改めて学ぶような内容は少なかった。したがった記事のボリュームも控えめ。今日は時間が限られていたのでちょうどよかった。
自分が特に関心のある「ストーリー表現」は「表現構成」や「物語」の領域に含まれるのかなー、とぼんやり思ったり。「空間環境」は……「身体」のあたり?
今夜は時間が取れなさそうなので、明日は休みが濃厚です。気長にお待ちください。
それでは
KnoN(70min)