知の編集工学 その5(前編)
午前中は歯医者に行ってきました。定期検診です。
……「口の中荒れてますねー」って言われちゃいました。歯茎に汚れがたまって炎症になっているとのこと。
確かに、ここしばらくは(例えばブログの記事を書いているときなんか)口寂しくてよく飴なんか舐めていたので、そのせいかも知れません。
しばらくおやつ断ちしてみよう。
引き続き
知の編集工学 (朝日文庫)(松岡正剛、2001)
の
第五章 複雑な時代を編集する
の前半をやります。
最近すっかり前後編が定着してきたな……。
第五章 複雑な時代を編集する
あなたの「世界」
江戸歌舞伎には「世界定め」という重要な約束事があった。
毎年九月十二日にとりおこなわれたもので、ものものしく恵方に狂言作者が坐り、居並ぶ太夫元・帳元・座頭役者らに「世界」を提示した。「世界」とは、興行の背景となる時代・出来事・人物に関する類型のことで、いわばワールド・モデルのことである。
(強調は筆者)
→このように「世界」が設定されたあと、そこに仕組み(=物語の展開、序破急)と趣向(=物語のパターン、〜〜モノ)が盛り込まれ、それらが「事」によって進行する、というのが歌舞伎の構造。
→これは編集の構造を考える上でも非常に示唆的ではないか?
……世界といっても国際関係や地球環境などの大きな世界から、会社の人事や色恋沙汰などにいたるまで、さまざまな世界がある。……世界の本質は世界のサイズには関係がない。一連の出来事がおこりうる場所、それが世界なのだ。落語では長屋ひとつが世界になっている。ということは、「世界」というのはそこに関与する全ての話題を成立させうる枠組のことなのだ。
(強調は筆者)
→仏教由来では「世間」、江戸時代の用語では「浮世」という言い方をする。
⇒あまり難しく考えずとも、「自分がどこまで当事者意識を持てるか」と考えれば「自分の世界」の範囲が分かるはず。
「セレブの生活って別の世界みたいな感じがするよね」みたいなことを言うときの「世界」がこれだ。
こうした「世界」を想定する事によってどのようなことがおこるのか。
→ストア学派の世界理性、フィチーノの世界霊、カントの世界概念、ヘーゲルの世界精神、ハイデッガーの世界ない存在、ウォーラスティンの世界システム……
→世界を語ろうとすることは、世界の中でどの「事」をなすべきなのかという問いに繋がる。
人々はそれぞれに自分の「世界(観)」(=ワールド・モデル)を持っており、そのモデルが大きく食い違えば衝突や排除という対立を引き起こしてしまう。
→<編集>とは、この使用済みのワールド・モデルを問い直す作業なのである。
……ここで使われている「世界」という用語については納得できた。
しかし「使用済み」の意味が分からない。そもそも「ワールド・モデルを使う」ってどんな事? モデルは道具みたいなもので、普通に使っていれば使い減りするなんてことはそうそうないと思うんだけど。
⇒改めて読み直していく事で理解できた。「ワールド・モデル」には想像力の射程があり、現実がその想像に追いついてしまったときにそのモデルはモデルとしての効力を失ってしまう、ということだ。
では「問い直す」とはどういうことなのだろう?
ここで注意すべきなのは、ワールド・モデルはあくまでも「事」が進行する設定の舞台であり、喜怒哀楽といった感情や利益の得失はワールド・モデルそのものが担うわけではない、ということだ。
→例えば将棋では、「9×9、81マスの盤上がフィールド」「8つずつの役割を持った敵味方のコマを使用」「それぞれのコマの特性に従い一手ずつ交互に進行する」という部分までがワールド・モデルモデルであり、そこに<ルールの群>が適用されてはじめてゲームとして成立する。
⇒ワールド・モデルの中でどのような<ルール>を用い、どのような結果が導かれるかはプレイヤー次第。
「ワールド・モデル」複雑化の歴史
まず最初期において世界は「この世」と「あの世」の2つに分かれていた。
この世(here)=自分がいる世界
あの世(there)=この世以外の世界。境界の向こう側、未知の世界
最初のワールド・モデルは「あの世」を構想する事で作られた。
→"ここではないどこか"を想像する事によりユートピアや桃源郷のようなモデルが生まれ、理想化され編集されていった。
次に「あの世」モデルに基づいて、「この世」の世界が次々に類推的に設計された。
→「あの世」を「この世」に再現する試みとして都市の建造や宗教建築の建立が行われた。
→エジプトのピラミッド、ギリシアのアクロポリス、長安の都、ボロブドゥール寺院……
しかし、これらの「地上のユートピア」が陰りを見せるにつれて再び人々は空想の中にワールド・モデルを設計し始めるようになった。
→「空想の中のワールド・モデル」は実在の社会に対する批判を媒介に誕生しており、かつての神話編集ではなく社会編集による産物であった。
→トマス・モアの『ユートピア』など
この社会編集による空想ワールド・モデルは「文学」と「実践」に分化する。
- 文学=より空想的な色彩を強め、「荒唐無稽ないしは不条理への飛翔」としての作品群。
→スウィフトの『ガリバー旅行記』、日本の浄瑠璃や歌舞伎…… - 実践=空想社会主義的な「地上のユートピア」を現実にしようとした動き。
→サン=シモンの諸学説、フーリエの「ファランステール」、オーウェンの「ニューハーモニー」……
⇒産業革命、アメリカ独立、フランス革命などの「現実のワールド・モデルの大改変」が起こり、旧来の想像力を大きく更新する必要に迫られたため。
後者の「実践」はその後も幾つものプランが構想され、最終的には「社会主義国家建設の大実験とその失敗」に至っている。
→従来の案では「全ての政策がまず専門委員会によって作成されるモデル・プランの提出によって開始される」(=政策の編集プロセスのオープン化)という特徴を持っていたが、ソ連や中共の社会主義国家では最終的に一党独裁として運営された。
かくして、この世(here)のワールド・モデルは。いまのところソ連の社会主義や中国の文化大革命の失敗までの歴史しかもっていない。ひょっとするとイスラム諸国の内側でなんらかの普遍性に富んだワールド・モデルが進行しているのかもしれないが、いまのとこはよくわからない。
⇒冷戦が終わり、「西」と「東」の境界がなくなって全てが「この世(here)」になってしまった。1996年時点ではイスラム世界が(こちら側から見た)最後の「あの世(there)」と見られていたようだが、2014年の現在ではどうだろうか。
確かにその内実にまだ知られていない部分はあるだろうが、インターネットや衛星回線の普及によりイスラム世界すらも「この世」に含まれつつあるように思える。というか、こういう状態こそが「グローバリゼーション」 とよばれる現象であり、時代が新しい「あの世」のモデルを求めているという事なのだろう。
時代は「新しい想像力」を望んでいる
ワールド・モデルの歴史は社会主義の失敗を最後に中断されており、政治も経済も学問もそれを更新しうる新しいモデルを提示できていない。かつてのモデルは絶え間なく変化を続ける現実に追いつけず、陳腐化してしまっている。
⇒パックス・アメリカーナの終焉、資本主義の拝金主義化、学問におけるパラダイム・シフトの不発……
→「いまやワールド・モデルは摩耗してしまった」
そうなのだ。
たしかに、私たちはいつのまにか「問い方と答え方のモデル」をさっぱり失ってしまったのだ。
それゆえ、いったいどのように「事」をおこすのか、その演出方法にも演技方法にも、からっきし自信が持てなくなってしまったのである。
(強調は筆者)
……「問い方と答え方のモデル」の部分に自信がない。 テキストでは主に「パラダイム・シフト」の部分にかかっているのだが、全体について述べているようにも思える。しかしそうなると上手くイメージできない。
それとも政治の話も経済の話も「学問が先行する・学問の領域から解き明かすことができる」からパラダイムの部分だけで大丈夫なのか。
「ワールド・モデルの摩耗=問い方と答え方のモデルの喪失」だと思うのだが……。なんとなく腑に落ちない感じ。
いくつかの打開策は考案されてはいるが、上手く行ってはいない。
→ポパーの「漸進的社会工学」、ハーバーマスの「コミュニケーション的行為理論」
→これらは正面から対立する主張でもあった(科学哲学における議論)。
ポパーとハバーマスの対立は、現代の学問的桎梏を象徴している。このような学問的対立に入ったら最後、ここからはあまり愉快な方向は生まれてこない。
対立を解消し、新たな一歩を踏み出すには、こうした考え方の突出部にある互いの理性的立場を相対化して、それらを包み込むようなハイパーモデルを想定できなければならない。そのハイパーモデルは、意外かもしれないが、おそらくは歌舞伎の構造のようなものである。
(強調は筆者)
著者はこの「ハイパーモデル」の話を受け、さらに次のように続けている。
……歌舞伎のように物語構造を進行させる方法がきっと示唆的だろう、と言いたいのだ。ワールド・モデルは「仮の宿」でなければならない、と言いたいのだ。仮設的であるべきなのだ。それでもし、ワールド・モデルを「現実のもの」と考えたいのなら、本書などではなくアメリカやイスラムの世界戦略に学ぶべきである。
「歌舞伎のような物語構造」に新しい世界モデルを構築する鍵が隠されている……。
ここからはこの「物語」について掘り下げていく、がそれはまた次回。
……個人的にも、そして本文の内容的にも重要な部分だと感じたのでこの章は丁寧にやります。
一章三節を前後編でやるのが最近のスタイルでしたが、この章は一回一節の全3回で。 特に次回の「物語」の話は、ストーリーデザインにも大きく関わってきそうで注目です。
自分がこのような思想的な話に傾倒するきっかけなった本として、宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』があるのですが、そこでいっている「想像力」がこの話の中での「ワールド・モデル」なのかなと思いました。
「想像力」は自分の中では重要なキーワードになっていて、今回のトピックのような大きな話から「モノゴトの可能性を想像する」という身近なレベルの話まで含んだ<想像力>として使っています。
自分が好きな話により近づいてきたのでついつい語りすぎました。
それでは。
KnoN(90min)