KnoNの学び部屋

落ち着きのない大学院生が専攻に関係ない(むしろそっちのけで)学んだコトを記録しておく場所

知の編集工学 その5(後編)

うーん、今日はリードの部分に書くネタがない……。

まあそんな時もあるよね。

 

引き続き

知の編集工学 (朝日文庫)松岡正剛、2001)

第五章 複雑な時代を編集する

の後編をやります。

今回は特に難しい……。

 

知の編集工学 (朝日文庫)

知の編集工学 (朝日文庫)

 

 

 <エディトリアリティ>の真価

 ずいぶん前のことだが、チャールズ・オズグッドの共通感覚実験の報告書を見ていたら、面白い例が載っていた。

 アングロ・アメリカ人、ナヴァホ・インディアン、日本人の三グループを公平に調査した結果、かれらに共通して、「速い」というイメージには「薄い・明るい・広い」が、「重い」というイメージには「下・暗い・近い」が、「静かな」には「水平的な」が、「騒がしい」には「曲がっている」が、それぞれ密接に関係し合っていたというのだ。

→このような共通感覚が世界中に存在していることは、幼児期の関心の対象やなぞなぞの類似性からも知られている。

→この共通の感覚こそ<エディトリアリティ(編集的現実感)>である。

 

⇒以前にこの用語が出てきたとき(その4)の文脈では、「物語が何度も編集され、文芸、演劇、ミュージカルとメディアを横断し、さらに新解釈や翻案が生まれる中で、変わらずに"保存"されているもの、変わらない"関係"」 として説明されていた。

⇒今回の文脈に則して解釈すると「文明や文化が伝播する中で(あるいは人類の原型(アーキタイプ)として同時多発的に)幾度の編集を経ても変わらない共通の感覚」となるだろうか。

 

 この<エディトリアリティ>は、ただ共通の感覚を持ているというだけでなく、いつしか社会に組み込まれて現実の習慣や制度にも影響を与えていると考えられる。

加藤典洋の「大・新・高」仮説=明治の「大」、大正〜昭和の「新」、戦後の「高」など時代によって特定の形容語が好んで使われているという説。

→噂、都市伝説の類い。

 

 <エディトリアリティ>の本質を一言で表すならば「もっともらしさ(plausibility)」ということになる。

⇒本来的にその真偽を確かめる術はないのに、「なんとなく」事実であるように感じられる・納得してしまう、という感覚。まことしやかで奇妙な現実感。

 

……ここについては幾つか言いたい事がある。

  • 「編集的」現実感の「編集的」の部分は、具体的にどういうものなのか?
    →<エディトリアリティ>が、なにか形容詞が必要な現実感だということは分かった。だがそれを「編集的」という言葉で説明するのが妥当なのか
  • 「もっともらしい」と先天的に感じる事と、社会の中で幼少期からの刷り込み(「これはこういうものなんだ」)で後天的に獲得された感覚をどう区別するのか。あるいは区別する必要はないのか?
  • 「もっともらしさ」の逆として、論理的には正しいはずなのになんとなく腑に落ちないというものもある。〇〇のパラドクス、と呼ばれるやつのこと。

 

 <エディトリアリティ>を厳密に定義する事は難しい。厳密を越えている概念であるからだ。しかし次の3つの特徴を指摘できる。

  • 主語的でも対象的でもない
  • 述語的に広まり、述語的につながっていく
  • メタゲーム性を持っている

 

 このそれぞれの特徴について順に掘り下げていく。

 

subjectとobjectの間

 私たちがある事態の動向や出来事を判断するとき、基本的に2つの態度(モード?)を使い分けてそれに対応している。

  • 自分と関わりが強いこととして考える=主体的な判断
  • 自分とは関係のないこととして考える=対象的な判断

 

 ところが「自分とは直接関係はなさそうなのに、自分の周囲ですでに話題になっている事柄」についてはこのどちらでもない態度に入ってしまう事がある。

→直接の体験ではないのにあたかも見知ったかのように語る、「もっともらしい」態度。

→噂・都市伝説はこの第三の態度で語られる事が多い。

 

 これは出来事の話題に対して人々がサブジェクト(主体)にもオブジェクト(対象)にも所属しなかった事を示している。主体と対象の間で、単に情報を受け渡すスルー・コミュニケーターとして振る舞っている。

この媒介的な立場はまさにメディア的・編集的であり、時にそこに自らの要素が付け加えられる"粉飾"が起こる事もある(=「噂話に尾ひれがつく」)。

 

 このような主体的でも対象的でもない情報の受け渡しを繰り返しているうちに、少しずつ無責任に"粉飾"された情報は実際のリアリティとはかけ離れたものになっていく。

→しかし媒介する人々はそれを「半ば自分の事のように、もっともらしく」語っているため、不思議な「現実感」がそこには保持されている

 

 

 そもそも主体と客体を明確に分けるという方法は、歴史的には新しいものである。具体的には近代、それも思索上の都合により便宜的に生まれた側面が強い。

→従来オブジェクト(客体)の語源にあたるobjectumという語の持っていた意味は「サブジェクト(主体)の中に投影されたもの、心中に思い描いたもの」というものであった。

→もともと思考の中の観念的な存在であったものが、徐々に「外」の現実的な存在をも示すようになり、ついにイマニュエル・カントによって主体の意識から切り離された「物自体」が想定されるに至った。

サブジェクトとオブジェクトは並立する別個の物として考えられるようになってしまった。

 

 

 <エディトリアリティ>は(<編集>が情報と文化を結びつけたように*1主体と客体の橋渡しをする概念だと考える事ができる。

→<エディトリアリティ>は主客の相互作用的な関係を促す。

⇒相手を理解し、自分のものとする(編集的に扱えるようにする)ために、相手と自分を一体化するということ。境界の曖昧な、主体でも客体でもないその「間」の状態に自らをおく

 

……「ひとつになる」というモチーフは、特に90年代以降の想像力で多く取り上げられているように思う。仲違いしたライバルが「精神感応的な世界」でひとつになり、わかりあって和解する、とか。

⇒というか「機動戦士ガンダム」がすでにそんな感じか。あれは「わかりあえかけたところで引き裂かれる」というところまで踏み込んでいたけど*2

 

満たされないからこそ繋がれる

 <エディトリアリティ>が述語的である、とはどういうことなのか。テキストでは例を通して理解するために、物理学者デヴィッド・ボームの「レオモード(rheomode)」と呼ばれる言語実験について説明している。

量子力学に一時代を画した物理学者デヴィッド・ボームのちょっと変わった言語実験だ。「動詞だけで認識や分析が進められるような表現方法をつくったらどうか」というもので、それなら思考が主客を分断させないだろうという提案だった。

 →要素に分解せず、主客の分断がおこらない文法。適当な動詞の中にサブジェクトとオブジェクトを同時に保存し、述語的な可能性の繋がりだけで思考が進んでいくモデル。

→「述語化による言葉の発生

 

……実験の内容からよくわからない。その結論に至っても言わずもがな。

 全体的にこの項は理解できなかったので、ポイントとなりそうな部分を引用し、なんとかコメントを付けてみるというやり方で行きます。

 

 編集工学ではしばしば「述語的であること」を重視する。

 それは編集工学がもともと分類的編纂性よりも、形容的編集性を重視しているからだ。述語的であるとは、「〜が」でつながっていくのではなく、「〜だ」でつながっていくことをいう。

(傍点の代わりに強調)

 ⇒「編集は内容よりも切り口に着目する」ということはすでに述べられていた。whatよりもhowを重視することが「述語的」ということだろうか。

 

 かつて「概念記法」というとびぬけて編集工学的な構想を立てたゴットロープ・フレーゲという論理学者がいた。論理を内包的に扱うことを避け、つねに外側から眺める外延的なアプローチを採用した。このフレーゲが論理学においても「述語は関数と同じはたらきをする」ということを喝破した。……

 フレーゲが述語に注目したのは、論理の中には「不飽和なもの」があることに気づいたからだった。……フレーゲはさらに「思想を構成する部分の全てが完結していてはならず、少なくともひとつは不飽和ないし述語的でなければならない。さもないと、部分は相互に密着しないであろう」という指摘にまで達した。

(強調は筆者)

 ⇒「不飽和ないし述語的でなければならい」とは、つまり満たされていない・不完全・何かをする余地がある、ということだろう。

⇒完全なものは他者を必要としない。満たされないからこそ他とつながる可能性が生まれる。

 

……西田幾多郎は「無」を媒介にした述語論理が成立しうるという論述をしたうえで、こう書いた。「判断というものは、じつは主語を述語が包摂することなのだ」

 これは「特殊」としての主語に対して、述語が「一般」であることを強調したものである。そのため、人間の知識は、この「一般」の無限の層の重ね合わせとして理解されるしかないのだととらえられた。いいかえれば、人間は自分自身の底辺にある「述語面」で、あらゆる意味と意味の繋がりを連絡づけているということだった。

(強調は筆者) 

⇒主語が「個別」で、それを説明する述語が「普遍」であることはわかる。しかし「主語を述語が包摂する」?

 

……全体として、「述語的である」とはどういうことかはうっすらと掴めて来たように思う。

 しかし<エディトリアリティ>がどう「述語的」であるのかを説明しろと言われると困ってしまう。その程度の理解。 

 あまり粘っても理解が進みそうなきがしないので、今回はこの程度で。

 

常に自身のことを考えている「自分」

英語で'slithy'という言葉を聞いたとき、英語を母国語とする人々は、slimy・slithery・slippery・lithe・slyといった言葉を、次々にアタマの中に響き渡らせる事があるという。私は英語人ではないから分からないが、どうもそういうものらしい。何が起こっているのか。

 

 ホフスタッターはこれを説明するために「印字遺伝子」なるものを想定した。

→われわれの<単語の目録>が<イメージの辞書>に付き合わされるとき、いわば印字酵素のようなものが発揮されて、そこに一種の三次元的な構造を与えるような<ルールの群>が生まれ、そのレイヤーの上に先ほどのような言葉が展開される。

→ この展開される言葉のチョイス、並び方に自己言及的な趣向が現れる。

 

⇒ある刺激(単語の入力)に対して、「自分だったらこういう単語を結びつける」という判断が無意識化で進行している。それは何かあるたびに更新(編集)され、常に「自分はどういう人間なのか」についてメタ的に考えている

⇒直接には関係ない事について、「自分だったらどうする」と考えるのはまさに<エディトリアリティ>の特徴。

 

 著者はこのことを次のようにまとめている。

 それにしても主体性とはずいぶんつまらないものである。

 いたずらに肩肘が張っているし、相手には優位に立たなくてはならず、もっと厄介なのは主語的な首尾一貫性にびくびくしていなくてはならない。こんなことは子供のころや初恋のころからこっぴどく懲りているはずのことである。それなのに、ついつい整合的な自分作りをさせられてきた。

 ……しかしそうではなく、もっと葛藤と矛盾と不飽和に満ちた「奥」の方へ進んでみたらどうなのか。メタゲームとは、その「奥」の領域で待っている「私自身のためのエディトリアル・ゲーム」のことなのだ。

 

⇒最近よく聞き、『ゼロ年代の想像力』でも触れられていた「キャラを作る」処世術が「整合的な自分作り」から連想された。「普段の自分」に反する振る舞いをすると「キャラが崩れてる」などといわれ、演じていることを暗黙の了解としつつもボロを出すのを許さない。

 「主語的な首尾一貫性」が自分も他人も縛り付ける窮屈な関係性の方に振れてきてしまっているのかもしない。

 

 

【今回の三行五行まとめ】

  • 自分の対象となりうる場所として「世界」があり、それがどういう風になっているかの枠組として「ワールド・モデル」がある。
  • 現在は有力なワールド・モデルがなく、「物語」の中にそのヒントがあるかもしれない。
  • 物語には原型としての<マザー>が存在する。
  • 日常生活の中でも物語回路を継ぎ接ぎすることで、アウトプットとしての「物語」をつくっている。
  • 主客の間をもっともらしく繋ぐ<エディトリアリティ>が、主語偏重の現在において新しい可能性への鍵になりうる。

 

……また長くなってしまった。今回、節ごとの話題が独立的だったから毎回作っても良かったかな。

 

【今回の宿題】

  • 「使用済みのワールド・モデルを問い直す」とは
  • 「問い方と答え方のモデル」とは
  • 「素朴な魂の全体」とは
  • 「<エディトリアリティ>が述語的である」とは

 

……もー、疲れた。小難しい上にボリュームも多かった。二本分弱の分量になっている気がする。

 特に言語学とか、論理学の考え方を援用しているのでそっちの素養がないとつらい。最初に読んだときは訳が分からなすぎて「こいつらのアタマをかち割って中を見てみたい」とか思ってしまった。

 <エディトリアリティ>の真価が「もっともらしさ」にあることが理解できたのが最大の収穫。これでぐっと納得の度合いが深まった。

(「納得」と「理解」の違いも、「もっともらしさ」に起因しているといえる)

 

 次の章が最後です。なんとか今までのことを含めて全体を理解できるようにアタマを働かせます。

 

それでは

 

KnoN(160min)