知の編集工学 その6(後編)
いよいよ佳境。
書き終わったらまた出かける予定。
引き続き
知の編集工学 (朝日文庫)(松岡正剛、2001)
の
第六章 方法の将来
の第二節、第三節をやります。
編集の創発性
ここまで「編集とはどういうものか」あるいは「考えるとは」「遊ぶとは」「言葉とは」「歴史とは」ということについて考えてきた。
著者はここまでのことを振り返り、いくつか言葉足らずだったことを補っているが、それらをまとめて「編集は創発する」と述べている。
私が「編集は創発する」とおもっている理由は、自然現象や社会現象を観察していると、そこにはおのずから<編集的相転移>ともいうべき臨界点があらわれていることに気がついたからだった。
(強調は筆者)
→私たちはあえて編集を加えて自然や社会を見ているのではなく、観察すること自体がどこかで<編集的創発性>を生じさせている。
この<編集的創発性>を支える視点を列挙すると、次のようになる。
- 自然「なぜ、自然は階層を持つように見えるのか」
→そうしなければ科学者たちは自然の編集をすることができなかったから。 - 生命「なぜ、いつから、生命は相互作用の中に入ったのか」
→まず「相互編集する情報の密度」があり、それがしだいに拡散する形で生物種たちが対発生していったから。 - 人間「なぜ、人間は自己を知ったのか」
→「内と外」「hereとthere」という場所の自覚の中で、<編集する自己>が意識されていったから。 - 社会「なぜ、社会は組織を必要としたのか」
→そもそも組織とは「情報編集システムを体制化したもの」であるから。 - 歴史「なぜ、歴史は混乱を好むのか」
→集団の内部に矛盾が生じ、それが外部に流出したときに、執拗な交換(経済取引?)を要求するために経済混乱・戦争混乱が起こるから。
→「交換と暴力」=「経済と戦争」の問題 - 文化「なぜ、文化は固有の言語を保持しようとするのか」
→そこには幾度もの編集が重ねられてきた凝縮された情報群が内包されているから。
→逆に「文化に固有の言語があるにもかかわらず、なぜ文化は言語を越えて移転するのか」ということも問いになる。 - 機械「なぜ、機械は自立的にふるまおうとするのか」
→人間の編集性を機械に代行させてようとしてきたから。
以上、何を言いたかったのか、わかってもらえただろうか。
私は「編集工学の思想的原郷」を手短にスケッチしたのだ。そして、<編集>が必ずしも準備されるばかりではなく、創発されるものだということを強調しておきたかった。<用意の編集>も大事だが、<卒意の編集>もまた、私たちを取り巻いているということである。
……んー、正直よくわかりません。
<編集的創発性>も<編集的相転移>も、どういうことをいいたいのかはっきりしない。
<相転移>の方は、「見たり考えてたりしていることは、いつの間にかその"臨界点"を越えて、他の情報と結びつけた新しいことを考える(=編集する)ことに形を変えている」というふうに解釈すればいいだろうか。
となると<創発性>は「新しいことを考える」という部分にかかっている?
「支える視点」というのも、わかるようなわからないような……。
個別で見れば、「ああ、そうなのか」みたいな気持ちになるけれど、それが<編集的創発性>にまとまっていくのがイメージできない。
世界の中に自分がある、自分の中に世界がある
われわれはついつい自分と世界を分断して考える。その方が楽であるからだ。けれども、「自分」とか「私」というものは意外にもたくさんの他者や出来事とつながっているものである。
たとえば「松岡正剛」という情報は、京都の呉服屋の生まれで、東京の九段高校の卒業生で、ヤクルト・スワローズのファンで、男という生物であり、日本人であり、アジア人である……というふうな広がりを持った<情報の扇>の中の"重なった一点"なのである。いいかえれば、「私」はつねに「世界」をインヘリタンス(継承)している部分の爆発なのである。
(強調は筆者)
⇒「和歌」と同じように、「私」という情報も背後に広大な意味の文脈、周辺情報を持っている。その文脈の多重点として、「私」というものが現れている。
たしかにいま、私たちは、自分が所属する情報空間や情報構造を説明することがひどく下手になっている。……
かつてはこんな自問自答こそが哲学の出発点となったり、歴史意識の出発点になっていたのだが、おそらくは「結果の平等」ばかりを気にしすぎた戦後民主主義の疑似成長とともに、これらの自問自答はばかばかしいものとされるようになった。
けれども私たちが「自分に関する知識」をもっているのかどうかということ、また私たちが、「自分自身に関する内部状態」と「自分自身の外延状態」の両方を同時に説明できるのかどうかということは、たいへん大事な問題である。
この十年間、さかんに標語になって、やや空語化しはじめていた「パーソナリゼーションとグローバリゼーションの一致」とは、じつはそのことなのだ。
(強調は筆者)
⇒自分がどんな周辺情報をもっているのか、把握も理解もできていない。伝統的な価値観、共同体が解体されていく中で、今まで自明だった「自分のバックグラウンド」をつぶさに見ていかなければならなくなってきている?
⇒その5で言及されていた「問い方と答え方のモデルを失ってしまった」というのはここに対応している?
問い方=自分自身の情報の文脈にについて考える方法
答え方=自身が「内部の情報」として何を含み、「外部の情報」として何をやっているかを説明する方法
とでも理解しておけばいいのか。
以上のことをふまえ、著者は「自分に関する知識」を格納できるシステム、そのような知識をどうつなげていってもおかしくならない相互編集システム、生きた情報がそのまま生き続けられるボランタリーな編集システムを研究・開発したいと述べている。
→「そうすれば、どんな対象であれ、そこには自分に接続する世界の連鎖が現れてくるに違いない」
人生を「遊ぶ」
<編集>の本質は<遊び>にある。<遊び>ならば、ワクワクして面白くなければならない。
では私たちを「ワクワクさせる」話とはどんなものだろうか。編集工学の本質に通じるものとして、著者はその特徴を3つしている。
- そこに現れる出来事や知識たちが、それぞれ「自分自身に関する知識」のハイパーリンク化をもってそこに出入りしている。
⇒「あたかも自分のことのように思われる」=<エディトリアリティ>を持つものがワクワクできる。自分の「外」にある対象としての知識ではなく、自分の中に取り込め「外」と「内」を繋いでくれるようなものが面白い。
⇒この連載の中でたびたび「自分が今まで考えていたことと、こう対応しているのでは」ということを差し挟んできたが、おそらくそれがこういうことなのだろう。 - ノンリニア(非線形)な構造感覚が溢れている。
→論理的に完全なものよりも、不安定で不飽和な述語性に満ちているものに可能性がある。 - 従来の知識の並び方に大いなる疑問を持ち、新たな再編成に立ち向かう。
→特定のオーサー(作者)が知の再編集を行うのではなく、ネットワーク的・グループワーク的に知識を立体的に並べ替える。
⇒Wikipediaとして実現しつつある?
最後にまとめとして、<自己編集性>について考えてみたい。
私たちはすでに投げ出された存在なのである。歴史の中に投げ出(プロジェクト)されているし、生まれて自意識が芽生えたときにも、すでにあらゆる先行性が準備されている。編集はその只中から出発をするトランジット・ワークなのである。
⇒私たちは"タブラ・ラーサ"(白紙)な状態からスタートする訳ではなく、現在進行形の情報の連なりの中の一点として存在している。
無から有を作り上げていくのではなく、すでにある<自分>を周囲との相互作用の中で作り替えながら新しい側面を生み出していくことこそ<自己編集性>の意味であり、「生きる」ということである。
【今回の三行まとめ】
- 見たり考えてたりしていることは、そのまま他の情報と結びつけた新しいことを考えることに形を変えている(=編集の創発性と相転移)。
- 「私」という情報も背後に広大な周辺情報を持っており、むしろその文脈の多重点として「私」というものが現れているといえる。
- すでにある<自分>を周囲との相互作用の中で作り替えながら新しい側面を生み出していくことこそ<自己編集性>の意味
……自分の考えを付け足したり、自分の言葉で言い換える「⇒」の部分が多かったのでほとんどコピペでまとめになっちゃいました。それだけ考えながら読めていた、ということでしょうか。
【今回の宿題】
……これでテキストの本文は終わりです。
最後、<自己編集性>のところにこれまで学んできたことが集約され、いろいろな意味を含んだ一文になったところが<編集工学>のなによりの実践でしょう。
自分が以前から考えてきていた「全てのものごとはなんらかのコンテクスト(文脈)の中にあり、そこから引き出されるメッセージを発している」ということが、受け取るだけではなく自分自身もその対象に含みうるというところまで発展して整理された形で説明されており、非常に「ワクワクする」テキストでした。
次回、「あとがき」を読みながら全体のまとめをして、〆としたいと思います。
それでは
KnoN(100min)