KnoNの学び部屋

落ち着きのない大学院生が専攻に関係ない(むしろそっちのけで)学んだコトを記録しておく場所

ストーリーメーカー まとめ(終)

今日はますます暑いらしいです。

でも調子のって薄着にすると、夕方に身体を冷やしそうで不安。

そんな病弱アピール。 

 

ここしばらく扱ってきた

ストーリーメーカー 創作のための物語論 (アスキー新書 84)大塚英志、2008)

について、「物語論を考える意味」として全体のまとめをやります。

 

 

はじめに 人は機械のように物語ることができる

◯物語には文法と呼べるものがある。

物語を物語足らしめる論理性として、その構造を内側から支えている。

 

◯この「物語の文法」を考えることにどんな意味があるのか?

人間は「書き、発話する」ことによってでしか「自分が自分であること」を考えられない。「私語り」は近代的個人を獲得する有効な手段であるが、物語る作法を身につけていない「私語り」は美的さも論理性も無く鬱陶しいだけである。

⇒「物語の文法」を後天的に獲得する方法を確立することにより、自分の考えていること・自分とは何かということについて"正しく"表現できる*1

 

社会学の話の中で、社会において自我はどのように構成されるかというトピックがあった。その際に、心中での「客我(Me)としての自分と主我(I)としての自分との対話」によって初めて「考える」という行為が可能になる、という話があったが、これと同じことを述べているように思う。

(参考 ジョージ・ハーバート・ミード - Wikipedia

 編集工学はさらに一歩踏み込み「主我と客我の境界を曖昧化し、思考の自発的な広がりを感じ取る」ことを主張している。

 

第一章 物語の基本中の基本は「行って帰る」である

◯物語の文法の一番の基本は2つある。

→「欠落したものが回復する」と「行って帰る

 

◯「行って帰る」という文法はどういう意味を持っているのか?

→こちら側(日常)・境界・向こう側(非日常)の3要素からなる。「日常の側から境界を越え、非日常の側へ行き、日常に戻ってくる」ということを意味する。

→非日常を体感することで、「日常・現実」の確かさを再発見するということがこの文法の主題となる。

 

◯同時に通過儀礼/イニシエーション」の反映としての側面も指摘される。

→「日常の確かさを再発見」することにより、成長する=大人になるためのプロセスとして位置づけられる。

 

第二章 物語を構成する最小単位とは何か

◯「物語の文法」の考え方が整理したのは1920年代のソビエト・ロシアだと考えられている。*2

モンタージュ論、構成主義などに見られる「表現は"最小単位"の組み合わせによって生成される」という思想と極めて近い。

→「対象はいくつか組み合わせることによって"概念"と照応されるようになる」

 

◯プロップはロシアの魔法民話を8種の役割、31の機能(登場人物が物語の進行のために取る行動)で分類し、「たった一つの構造しかない」という結論を得た。

→「機能」という最小単位の組み合わせにより数多の魔法民話のバリエーションが生まれている。

 

⇒この「31の機能」は魔法民話における<マザー>、原型(アーキタイプ)に相当する?

 

 

第三章 英雄は誰を殺し大人になるのか

◯「物語の文法」という発想は「作者の固有性の発露としての表現」という意識と対立する。

→作品が自分自身のためだけでなく、他者に見せるためのものである以上、「最低限の体裁を整える」ことが必要であるというのがテキスト(および筆者)の立場。

→文法という枠組の中にどのような変数を入れるのか、どのようなバリエーションを生み出しうるのかという点において作者の独自性が発揮される。

 

⇒「物語の枠組」そのものを更新するようなものができたとしたらそれは歴史に残る発明になるだろうが、同時に受信のためのプロトコル(=物語の読み方のマナー)が共有されていない同時代人の読者には伝わらないし、評価され得ないだろう。

 

◯現代(『スター・ウォーズ』以後)においては、分析理論・批評理論としての物語論が創作のためのマニュアルに転用されることは当たり前になっている。

→「物語論が物語をコントロールする」時代になってきてしまっている。

 

因果の二重性、行動と結果の再帰性については、社会学の講義でも重要点として説明されていた。無限の反復の先に再構成された「新しい物語(論)」の発見を期待する。

 

第四章 世界中の神話はたった一つの構造からなる

◯現在の日本では、物語論は批評理論としては参考にされながら技術論としては採用されていない。

私小説文学の伝統が、創作行為を個人のブラックボックスの中で行われる極めて私的な営みとして規定してしまっている。

 

◯15年戦争下の映画界における、記録映画・ドキュメンタリー映画などの「非ストーリー様式」をより芸術的だとする思想潮流以来、シナリオのディベロップメントという工程が軽視されてきた。

→対してまんが表現は意識的に「ストーリー」を自らの領域に導入してきた。

→現在の日本において映画・テレビドラマなどの映像表現はまんが・小説などから原作の提供を受けて作品を製作するケースが多くなってきている。*3

 

⇒必ずしも映像表現の世界における「想像力」が劣っている訳ではない。

 『ゼロ年代の想像力』では、白岩玄の小説『野ブタ。をプロデュース』を木皿泉が脚本したドラマ版『野ブタ。をプロデュース』について一章を割いて言及していたが、主人公のおかれた状況を巧みに読み替えることにより原作の想像力の限界を越えた想像力と提出したと評価していた。

 問題はこれが個人の力量によるものであり、それを組織的に継続させる体質ができていないという点である。

 

◯キャンベルは物語の分析にユングは心理学の考え方を取り入れ、「英雄神話は人間の自己実現のプロセスと対応している」という結論を導きだした。

→「通過儀礼/イニシエーション」としての側面を重視している。

 

第五章 ハリウッド映画の物語論

物語論の研究成果は、創作技術論への転用に先んじて教育現場での応用が行われた。*4

→「物語」の学習プロセスの検証は、そもそも物語の学習可能性の立証につながる。

 

◯技術の進歩により入手できる情報の絶対量が膨大になり、現代の社会情勢が混迷の度合いを深めるにつれ、人々は現実を「物語論的な因果律」によって解釈するようになってきてしまっている。

複雑な現実を単純な物語的構図に矮小化することにより理解可能なスケールに落とし込む。

ゼロ年代のアメリカのアフガニスタン紛争イラク戦争において、政治や経済における矛盾の噴出という側面からの分析ではなく「テロとの戦い」「文明の衝突」といった切り口での言論が多く見られたことが挙げられる。

 

⇒「ナラティブ」という考え方があるらしい。

 ナラティブセラピーのように精神医学での応用として注目されているが、「現実の社会は全て人々の意識や考えの中で生まれたものである」とする社会構築主義的な思想の下に生まれたアイデアである。

 世の中の事象を人々がどのように認知しているかが重要だと考え、「物語論的な文脈」の下で状況を解釈することもこれに含まれるだろう。

 小泉政権時代の「劇場型政治」やその語源になったとも考えられる「劇場型犯罪」はこれをさす言葉だと考えられるし、スターリン時代の大粛正はこの「ナラティブ」によって内部正当化されていたという意見もあるようだ。

 

 またこれは『知の編集工学』で学んできた「物語による編集」の負の側面とも言える。情報を物語的に編集(=解釈)することにより、より多くの情報を取り込めるようになるが、同時に「自分の都合の良いような取捨選択」が分かりやすいフォーマットを与えられた形で進行することになる。

 

 

ポストモダンの思想的特徴は「大きな物語の解体・終焉」だと言われている。冷戦構造の終結、昭和の時代の終わりなどがそれを象徴した。

→著者はこれを「より単純化された「大きな物語」の物語論的な復興」と考えている。

→政治や経済の世界での「大きな物語」が終わり、替わって物語論の世界における「構造」があらゆる場面での想像力を規定し始めた。

 

⇒しかし結局のところ「一つの表現が文化圏や国境を越えて届くのは何より「構造」の部分」である。批評理論(=受信)としてだけではなく表現の理論(=発信)として、「伝えたいことを伝えられるように」磨いていくことが、おそらく重要。

 

 

【今回の三行まとめ】

  • 人間は「物語る」ことによって自分について考えることができる。「物語の文法」はその内容を整理し、自分だけでなく他者に対してもそれを伝える手助けとなりうる。
  • 分析理論としての物語論が創作技術論に転用され、「物語論が物語をコントロールする」という再帰的な時代になっている。
  • モダニズムにおける「大きな物語」の終焉に代わり、物語論的に「より単純化された大きな物語」が社会の想像力を規定しつつある。

 

【今回の宿題】

  • 特になし

 

……やっぱり自分で色々と考えながら書いた方が充実感があるな。

 物語論に「編集工学」「因果の再帰性」「ナラティブ」などの最近学んで引っかかっていたことを絡めて説明してみた。

 結局のところ自分に取って物語論を考える意味は、一次的には創作技術論への転用(=いかに伝わるように描くか)、二次的には社会批評への補助線(=いかにして「社会が世界をどう読み解いているのか」を読み解くか)というようにまとめられるこいうことだろう。

 「ナラティブ」まわりの話はもっと掘り下げて学んでみたい。

 

 『ストーリーメーカー』の連載はここでひとまず終わりです。

 これらの物語論大塚英志がよりアウトプットしやすいようにマニュアル化した「ストーリーメーカー」の解説が第二部としてあるのですが、少なくとも今回は取り上げません。

 

 次のテキストは何にしようかなー。『知の編集術』でも『ブックガイド』でもない2冊のどちらにしようか悩んでいます。

 

 それでは

 

 KnoN(120min)

*1:この"正しく"という言葉に込められた意味は美醜や善悪ではなく、作者が考えていることを読者に伝えるのに"ふさわしい"手段をとれるということである。

*2:コメント欄の議論から。

 「物語の規則性の追究がソビエト・ロシアで行われたのは、共産主義のプロパガンダへ応用するためではないか」という指摘。民衆に膾炙していた民話の構造を転用することで共産主義思想を広めよとしたのではないか。

⇒説得力ある仮説だと思うが未検証。

 同時に「前近代的な魔法民話を近代的な手法で解体しようとしたのでは」という考えも。

*3:ディズニーなどのハリウッド・アニメが(原案などはあるが)独自のシナリオでヒット作を製作し続けているのと対象的。

 もっとも実写の方ではシリーズ物やアメコミの映像化などが多くなってきているようであるし、確実に一定のヒットを見込めるという経済的な事情も無視できない。

*4:内田伸子の「子供が物語る能力をいかにして獲得していくか」という実験心理学的な研究は、著者(大塚英志)の理論的な根拠となった。