KnoNの学び部屋

大学に8年在籍した後無事に就職した会社員が何かやるところ。

ロラン・バルト(シリーズ現代思想ガイドブック) その4

 今日のランチは結局ミートソースでした。

 

引き続き

ロラン・バルト (シリーズ 現代思想ガイドブック)(グレアム・アレン、2006)

第四章 構造主義

をやります。

 

ロラン・バルト (シリーズ 現代思想ガイドブック)

ロラン・バルト (シリーズ 現代思想ガイドブック)

 

 

第四章 構造主義 

批評の欺瞞

 バルトは同時代における批評のスタイルについて、2つのスタイルがあるとしている。

解釈的批評

=新しい立場。構造主義精神分析、その他理論的発展の成果からモデルとアプローチを採用し、その理論に則った批評を行う。

⇒自らが特定のイデオロギーと密着していることに自覚的。

 

大学批評

=旧来の立場。自己がイデオロギーの外にあると主張し、文学作品の意味を歴史的、伝記的事実など作家やその周囲のコンテクストの中に読み取ろうとする。

⇒自然さを装い、その背後のイデオロギーを隠そうとする。

 

 このようなバルトの区別は「大学批評」派に属する文化人たちから攻撃の対象となり、特にソルボンヌ*1の仏文学教授であるレーモン・ピカールラシーヌ学者として名高い)との間で論争となった。

※このなかでピカール(大学批評)側が、バルトを含み多くの批評アプローチを十把一絡げに「新批評」としたため、バルト(解釈的批評)側も「旧批評」と対比させて語ることになった。

 

 バルトは、「「旧批評」が我慢ならないのは、「新批評」が自らを批評的評価(=批評の伝統的形式)でではなく、言語それ自体へと関わらせていることなのだ」と論じる。

⇒「新批評」が、より深いレベルで批評を掘り返すことにより、「旧批評」側が自らの伝統的な批評の形式の裏に隠していたイデオロギーを暴くことに反発した。

 

……「客観性」や「よき趣味」、言語の「明晰さ」など「旧批評」の諸規則は、すべて文学を安全な位置に保ち、文学をイデオロギーや歴史から、また最終的には単一の意味に還元できない象徴的言語からさえ保護するのに役立っているというのがバルトの持論である。

 

 バルトは論争の中で自らの考えを整理する必要に迫られ、文学テクストに向かう3つの態度(科学、批評、読解)を記述するに至る。

 科学的アプローチは、文学作品(「物語」)が生成される一般システム(「記述の仮定モデル」)に関わる構造主義アプローチそのものである。次節ではこの内容について検討していく。

 

……ここまでの連載の中で繰り返し触れているように、バルトは「解釈の欺瞞」あるいは「神話」のような「特定のイデオロギーが、その姿を隠し無邪気さ(自然さ、真正さ)を装って呈示される」ことに対して強く反発を覚えているように思われる。

 「解釈的批評」に対してはそれが特定のイデオロギーに依存していることを認めながらも「批評それ自体が自己自身への反省を批評の土台とするような活動」であるとして許容している。

 「自らの立場を自覚し、それをオープンにすることで誠実であろうとする」ことを評価しているのだろうが、それは「安全な痛み*2」に通じるものがあるのではないだろうか?

 ある種の「開き直り」とも言えるかもしれない。

 

 言語と物語の相似形

 バルトは人類文明と同じくらいに古く、対象となり得るものが無数にある「物語」に対し、具体的表現であるパロールを無視し、ダイレクトにシステム(ラング)を扱わなければ分析しえないと考えた。

……わたしたちは、現実のものとして現れた〔現勢的な〕物語や言語、あるいはモードの例から始めることはできない。構造言語学におけるソシュールの分析と同じように、構造分析はパロール(語り、言語、モードの行為)を考慮からはずして、ただちに「仮説的モデル」の構築に向かわなければならないのである。……最も関与的で成功の見込みがあるモデルは、言語のモデルであり、また構造言語学のモデルであるとバルトは論じる。

(傍点省略、強調は筆者)

 

 言語学において操作の最大の単位は「文」であるが、バルトらは物語を文と同じようにあたかもひとつの単位として扱うことで、言語学の原理を物語研究へと援用することを可能とした。

⇒文が語の結合と対立からなっているように、物語を文の結合と対立からなっていると考える。

 

 特に重要な概念は言語学における「統辞軸と範列軸の対立」であるだろう。

統辞軸(synagmatic)

=語の垂直的な広がり、連続的な繋がりの配置の軸。文法規則による。

 

範列軸(paradigmatic)

=語の水平的な広がり、代替可能な語の群の軸。イメージの連合(=連想)による。

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 バルトは、統辞軸と範列軸に一致したやり方で、「語りに含まれる諸行為のような継起のレベルが高次の意味のレベルに統合される流儀」に焦点を合わせる。

→語りには「機能」→「行為」→「語り」の3つのレベルがあり、下位の要素が統合され上位の要素を発生させている。

 

 またバルトは機能の中に2つの面を見ている。

配分的機能=原因と結果の一致の因果関係。物語の筋。

指標的機能=時系列ではないが、内容理解を深めるディテール。登場人物の「キャラ」付け。

→筋だけでなく、これらの「指標」を「行為」のレベルでのより大きなグループに統合することによって、読者にその意図を伝えることができる。

 

個性からシステムへ

 バルトは機能と指標の両方について統合の運動を実際に行うやり方から、もっとも重要な構造主義の思想と思想家を自己の分析に導入できるようになる。

→ウラジミール・プロップの魔法民話分析、クロード・レヴィ=ストロースの構造人類学など。

 

 この構造的な手続きは様々な種類の語りを科学的に記述しうる可能性を提供している。

 プロップが対象とした魔法民話では、物語は「機能(バルトの分類では「行為」のレベル)」のシークエンスとして生成される。

 一方で現代小説は、登場人物のインデックス付け(=キャラ付け)にかなり依拠しているようだ、というのがバルトの見解である。このプロセスを通して、複雑な「心理的リアリズム」を発生させている。

……現代小説は、機能と登場人物や雰囲気の指標を、「リアリティ」の幻想を発生させるために利用する。バルトが頻繁に記しているように、ブルジョワ「文学」におてい(描写により)仔細に説明されるものはいつでも「リアリティ」と、つまり「リアリズム」と結びついている。

 したがってバルトによる物語の構造分析へのアンガジュマンは、現代の語りをリアリズムよりもむしろシステマティック(形式的)な基礎から証明することで、ブルジョワ「文学」の脱神話化を継続する道なのである。

(改行、強調は筆者)

 

 物語は、現実性の表象ではなく大本の生成システムに由来している。

物語が直接わたしたち(読者)に到達するのではなく、意味作用のプロセスを経て、各自の属する文脈に沿って翻訳された上で受容される

→「文がひとつの「わたし」(送信者)と「あなた」(受信者)を前提とするように、物語も最終的にはどのように語り手と読者を配置するかという観点から理解されねばならない」

 

 構造分析では、「語りの記号の源泉」は著者個人ではなく人間意識に由来すると考えている(物語の<マザー>)。

→著者の存在は問題にならず、純粋にそのシステムの内部で記号を読み解く必要がある(⇒作者の死)。

 

【今回の三行まとめ】

  • バルトはピカールとの論争の中で、批評に対する自らの立ち位置と、旧批評が持つ欺瞞を明らかにした。
  • 言語学理論を援用する形で、物語を生成するシステムそのものを扱う重要性を主張してる。
  • 物語は語られるそのままとして受け取られるのではなく、読者の側の意味作用のプロセスをへて初めて受容される。

 

【今回の宿題】

  • 解釈的批評に対する「安全な痛み」論

 

……なんだかやたらと最後1/3をまとめるのが大変だった。読んでるときにはさらっと終わらせられたのに。

 アタマ働かなくなってお昼も休憩を入れた結果、むやみに長い時間記事を書いていた気がします。どうでも良い図も作っちゃったし。

 内容についてはこれもまた復習に近い。プロップにも言及されたし。

 この辺りをもっとつっこもうとおもったら、もう入門書じゃなくて原著に当たった方がいいんだろうな。

 

それでは

 

KnoN(測定不能)

 

物語の構造分析

物語の構造分析

 

 

構造人類学

構造人類学

 

 

*1:パリ大学のソルボンヌ校、のはずだが「ソルボンヌ」を関する大学だけて複数あり、どれのことやら。フランスの大学制度はよくわからん。

参照 パリ大学 - Wikipedia

*2:ロラン・バルト(シリーズ現代思想ガイドブック) その2 - KnoNの学び部屋

の脚注で触れている