ロラン・バルト(シリーズ現代思想ガイドブック) その5
今日は一ヶ月ぶりにストーリーデザイン研究会の会合があります。
どんな感じで進めるかまだイメージが固まってないですが、とりあえずは楽しみです。
引き続き
ロラン・バルト (シリーズ 現代思想ガイドブック)(グレアム・アレン、2006)
の
第五章 作者の死
をやります。
- 作者: グレアムアレン,Graham Allen,原宏之
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2006/04
- メディア: 単行本
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第五章 作者の死
ここまでバルトの1967年頃までの仕事と思想を見てきた。これは「構造主義の段階」と言われている時期であるが、これ以降バルトはそこから離れ、あるいは乗り越えた新しい段階へと入っていく。そこにはジャック・デリダの脱構築(ディコンストラクション)との共鳴があった。
批評の賞味期限
バルトは記号学と構造主義に熱心に関わっていた時期においてさえ、「記号システムのか科学的研究は、対象が文学であれ文化的なものであれ、ひとつの考え方にすぎない」と慎重な態度を崩していなかった。
一方でこの時期を「カテゴリーをつくり分類することの一時的な強迫観念、あるいは「システム性」を行使するある種の快楽に耽溺していた段階」であったとも語っている。
しかしいずれにせよ、構造主義と記号学の方法がアカデミズムと知的読者層一般に普及し始めたその時、もはやそれらは解体されるべきものに転化してしまったのである。
⇒「ブルジョワ文化の重力」に取り込まれ、記号学自体が記号学で批判しようとしていたものの一部となってしまった。
→記号学は(その1で説明したものとしての)エクリチュールの位置にある。不可逆的な文化吸収(アカルチュレーション)により、絶えず脅かされている。
→「神話の脱神話化」から「記号の概念そのものへの批評と解体」(=新たな記号学)へのシフト
⇒エクリチュール、あるいは批評の方法には、賞味期限があると考えると良いのかもしれない。どんなに尖った、鋭い批評でも不可避的に飼い馴らされ、陳腐化してしまうのだ。
⇒そういえば松岡正剛も「使用済みのワールド・モデルを問い直す」といったことを主張していた
なぜ「新たな記号学」は記号自体を攻撃しなければならないのか?
→記号は「西洋文明の起源から現代のマスコミュニケーション・システムまで支えてきた「意味のシステム」に巻き込まれて」いるから。
⇒共通の大きな枠組の中でのことに過ぎず、それすらも相対化しなければ「自然化を装ったイデオロギー」をあぶり出せない。
脱構築:無限の連鎖と基準の不在
このようなバルトの指摘は、デリダの脱構築の哲学に通ずるものがある。
デリダは「構造についての全ての考え方は、中心の概念、すなわち意味が流れ出す起源ないし創始の概念に依拠している」と論じる。
→意味の体系、シニフィアンとシニフィエの無限の連鎖の中に、絶対的な参照点としての「中心」(超越論的シニフィエ)を仮定している。
しかしその「中心」が持つはずの性質ーー全ての要素と繋がりを持ちつつ、あらゆる影響を受けないーーを考えると、「構造の中にありながら構造の外にもある」という逆説的な結論が得られる。
……中心は、全体性の中心にありながらも、中心は全体性に属さないのだから、全体性がその中心を持っている。中心は中心ではない。中心に遠心的に集められる構造の概念はーー中心は均質性自体を表象し、哲学や科学のエピステーメー〔(特定の時代パラダイムの)知〕の条件を表象するのにーー、逆説的にも一貫的なのである。
(デリダ『エクリチュールと差異』)
(強調は筆者)
「中心」(超越論的シニフィエ)となりうるものは存在しない。あらゆるシニフィエは、終わりを知らないプロセスの中で新たなシニフィアンとなってしまう。意味の連鎖は相対的な関係のままでふわふわと彷徨うことになる。
→記号論は「あらゆる文化的記号システムを読み解く」ようには機能しない。
……なるほどなー、という感想。
シニフィアンとシニフィエの無限の連鎖についてはぼんやりと考えていたが、それでもきっと有限性がある(どこかに「究極のシニフィエ」がある)に違いないと希望的観測を持って目をそらしていた。
脱構築とはこの問題を正面から扱った思想だったのだな。
「記号の帝国」としての日本、テクストとしての日本
バルトは1970年の『表徴の帝国』のなかで日本を研究対象としている。
しかしそれは『モードの体系』のなかで行ったような、デノテーションとコノテーションの意味の区別を用いた分析の実践ではない。
ここでのバルトの目的は「西洋世界の外部の文化では、記号がどのように機能するか、意味とは何かといったことについての、私たちの先入見がいかに揺さぶられるかを証明する」ことである。
……バルトが日本文化に見出すのは、西洋人の意味への強迫的な執着からの解放である。ここでいう強迫観念は、モノの内部に意味を、シニフィアン〔正確には記号〕の内部にシニフィエを探し求めることと要約できる。
バルトは日本語を少しも知らないので、彼の周囲で話される言語は意味を書いた純粋な音となる。日本食は全く階層秩序のない仕方で供される(前菜、主食、デザートなどの順序はない)ので、純粋に自由な食事の組み合わせが許される。日本人の包装への愛着はバルトを魅了し興奮させるが、それは最終的なシニフィエへと導くことのない空虚な記号ないしシニフィアン〔記号が正しい〕への愛にある文化を肯定しているように思われる。……
(強調、改行は筆者)
⇒バルトは、日本という異国において「意味の背景」を持っていない。したがってあらゆる記号からシニフィエを読み取ることができず、ただ「そこにあるもの」としてしか応答できない。バルトはこれこそが「脱構築」された状態だと考える。
また、皇居を「空虚な中心」として読んだのはバルトである。しかしここでは「東京の通りは名前を持たない」という指摘について注目してみたい。
東京では通りには必ずしも名前がついていない。住所表記は区画ベースとなっている。そのため「ある場所を初めて訪れるということは、その場所を書くことから始まる。住所はあらかじめ書かれていないのだから、自らのエクリチュールを樹立しなければならないのである」となるのである。
⇒西洋ではほぼ全ての道に名前(=便宜的な「究極のシニフィエ」)がついている。目的地への移動は、「すでに名前がついている通りを乗り継いでいく」プロセスとして記述できる。
しかし日本ではそうはいかない。どの道を通るのか、どの角で曲がるのか、その都度自らの言葉(エクリチュール)で表現しなければならない。
日本を書くという発想、(意味の不在により)挑発されて書くという行為に至るという発想は、バルトのポスト構造主義の局面に決定的な示唆を与えた。
→バルトは日本を、「最終的には読解不能な、伝統的に東洋の読解が探し求めてきた最終的な意味の類いへの回収(発見)を超出したものに留まるテクスト」として読む。
日本には「究極のシニフィエ」がないので、シニフィアン群はその無限の連鎖を止めることがない。それを扱うためには、読者は書き手とならなければならない。「テクストを再創造する者、そのテクストの上に自らのかりそめの構造とパターンと意味を描く者」とならねばならない。
→「読み手=書き手」「読書=著述」となる。
……「日本には「究極のシニフィエ」がない」ってところが引っかかる。西洋文明と日本で何が違うというのか?
バルトにとっては、自分と切り離された意味体系の中で「脱構築」される場所かもしれないが、日本在住日本人にとってはそれはあてはまらない。しかし「異国」にいくことが「脱構築」だ、というのはあまりに寂しい結論だ。
作者からテクストへ
1968年のバルトのエッセイ「作者の死」は、その名を世に広めた仕事として、「神話」の中で知られている。
しかし私たちにとっては「読書と著述、また記号とそれを含むテクストとの間の関係の諸問題についてバルトが発生させた、ポスト構造主義的アプローチの凝縮された表明」としてむしろ有用である。
作者は、伝統的に「作品の背後に立ちかめる超越論的シニフィエ」「文学作品のシニフィアンの錨」として考えられてきた。意味を安定させる存在としての作者、である。
しかしその存在が不要であることは、すでに構造主義を巡る議論の中で述べた。
→このエッセイをポスト構造主義的なものにしているのは、同論内部に置ける「テクスト性と間テクスト性理論の芽生え」なのである。
意味を安定させるために作者の形象を利用することは、近代西洋社会の自らを単一で統合された意味あるいは「真理」の所有のうちにあると呈示する試みに合流する、とバルトは論じている。……
これらのことばのなかでバルト自身の発展にとって最も重要なものは、エクリチュールやテクストであり、また言語学的心理学的主体〔主語〕に関わるさまざまな着想と用語である。
「作者の死」のようなエッセイの中で、「エクリチュール」は究極のシニフィエを措定せず、またそこに依拠しない言語活動を支持する用語となり始める。
(改行、強調は筆者)
……社会はわたしたちに、あらゆるテクストには消費できる(明晰で、判読可能、読みうる、有限の)意味があると信じさせようと欲していると、バルトやクリステヴァは論じている。この意味で、文学は支配的社会により消費主義の一部門として扱われているのだ。
(強調は筆者)
作者の囲い込みから自由であり、いかなる超越論的シニフィエからも免除されているようなエクリチュールはどこにあるのか。
→バルトは「テクストの概念のうち」にそれは存在すると考えている。
テクストとは、一列に並んだ語から成り、単一の<<神学的な>>意味(「神—作者」の<<メッセージ>>)を放つものではない。テクストとは多次元の空間であり、そこではいくつものエクリチュールが、結合したり反目したりし合い、そのどれもが起源であることはない。テクストとは無数の意味の源泉からやってきた引用の織物である。
(バルト『物語の構造分析』)
(強調は筆者)
【今回の三行まとめ】
- 既存の批評、ブルジョワ文化を批判するための記号学・構造主義であったが、それすらもブルジョワ文化の重力に取り込まれて無効化されてしまった。記号そのものを解体する「新しい記号学」が必要とされている。
- デリダは構造の前提となっていた「中心」の不在を明らかにした。シニフィアンは無限の連鎖の中で基準点を失ってしまったことになる。
- バルトはその「無限の連鎖」の中で、「読み手が書き手となることで自らのエクリチュールを確立する」ことに突破口を見ている。
【今回の宿題】
- 日本における「究極のシニフィエ」の不在
……なんだか最後の方、うまく噛み砕けなくてひたすら引用を繰り返す手抜きまとめになってしまいました。
噛み砕けないってことは理解できてないってことなんだけど、どっちかっていうとテキストの論理展開がきちんと繋がっていないような……という責任転嫁。
局面局面でいっていることはわかるのですが、それをどう並べ替えれば良いのかがわからなかった。
気づいたらかなり長くなってしまっていました。でも分けると中途半端になってただろうし、まあいいか。
それでは
KnoN(130min)
- 作者: ジャックデリダ,Jacques Derrida,合田正人,谷口博史
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
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