ロラン・バルト(シリーズ現代思想ガイドブック) その6
なんとなく最近ブログの記事を書くことについてスランプな気がする。
うまく要約できないというか、入れるべき情報と省略して良い情報の取捨選択の基準にズレを感じているというか。
もっと読みやすい、わかりやすい記事を書きたいなー、と思います。
引き続き
ロラン・バルト (シリーズ 現代思想ガイドブック)(グレアム・アレン、2006)
の
第六章 テクスチュアリティ
をやります。
- 作者: グレアムアレン,Graham Allen,原宏之
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2006/04
- メディア: 単行本
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第六章 テクスチュアリティ
前回、構造主義的な思想を持っていたバルトが、シニフィアンの無限の連鎖を前にしてポスト構造主義へと立場を移していく様子について学んだ。
ここではバルトの思想をポスト構造主義的にした「テクスト理論と間テクスト性」について、『S/Z』を題材に考えてみる。
テクストは読者により再生産される
今日テクスト理論と呼ばれているもののきっかけは、ジュリア・クリステヴァによりロシアからもたらされた。ロシアの言語学者ミハイル・バフチンはその仕事の中で、「言語の対話的な性質」について研究している。
→言語の中には、つねに多義性の中に巻き込まれている文学言語(「詩的言語」)がある。
→「作者とは、結局のところ、複数テクスト間の意味と関係の編集者に過ぎない」
間テクスト性の理論は、記号(仮定された安定的なシニフィエ)、あるいは作者(仮定された神のごとき意味の創造者)のなかに見られる伝統的な意味の起源という概念を打ち壊すものである。
文学テクストは、その間テクスト的な性質が示すように、既存のテクストの断片つまり「引用の織物」により構成されているのであるから、そこには意味の起源などありえない。この理論では、意味がもはや起源を持たないのだから、作者ももはや意味の創造者ではないということになる。
(改行、強調は筆者)
→ポスト構造主義において最終的に破壊されたのは、作者ではなく読者の観念である。
⇒読者は書かれたもの(作品)を書かれたままに受け取ることはなく、自分のもつ意味の文脈(「引用や参照、相互反響」)のなかで、自らがその意味を織り上げながら生産したものを読んでいる。
⇒「噛み砕いて自分の言葉で説明する」ということが、まさにここで書かれていることだろう。一個のテクストから読み取られる情報は一定ではなく、読者がどのような情報に結びつける("引用"する)かにより異なるものとして受容される。このとき読者はテクストを素材に、テクスト'を生産する作者でもある。
「テクストは能動的な活動のなか、生産活動の中でしか体験されない」
「テクストを作り上げている引用は、作者不明で回復不可能なものであるが、しかしすでに読まれたものーーつまり引用府のない引用なのである」
(バルト『物語の構造分析』)
読者の数だけ「読み」がある
ここでテクストの読まれ方は、これまで記号論的になされていた説明とは異なった様相を示していることがわかるだろう。
意味作用=記号論的。シニフィエとシニフィアンの安定的な関係を前提とし、通俗的な意味一般に結びつけられる。
意味生成=間テクスト的。読者により産出されるべき何かしらの意味を支持する。読者それぞれで異なり、複数性を持つ。
→「前者がテクストがどのように構築されているかを追究するのに対して、後者はテクストの「意味の冒険」を跡づけて、意味が「炸裂し散らばる」様子を探求しようとする」
このようなバルトの「テクスト分析」の最たる例が『S/Z』、つまりバルザックの短編『サラジーヌ』の分析である。
バルトはこの短編物語について、物語、リアリズム、文学、テクスト性、言語などのテーマの観点から200ページ以上にもわたる分析を行う。
構造分析は、テクストを細かく分割した小さな意味単位(レクシ)をベースに行われる。
レクシは読者による恣意的な意味の単位である。読者が変われば異なった"レクシ"を発見し、テクストを能動的に産出している読者がそこに意味の炸裂を散らばりを発見する。レクシはシニフィアンの含みを持つコノテーションのまとまりを見出すことが出来る読みの単位なのである。*1
レクシが最終的に可能にするのは、多様なコードの発生である。テクストの中で意味がどのように生み出され分散されるかを捉えようとする試みの中で、バルトは5つのコードを用いている。
◯語りと時系列(シークエンス)の論理に関わる:線的、反転不可能
→始まりから終わりまでの時系列の運動を産出する
- 解釈学的コード(HER)
- 行為のコード、プロアイレティック(行為選択的)なコード(ACT)
◯物語が自己自身を産出する仕方に関わる:散布的、反転可能
→間テクストの領域において物語の流れや進行を分裂させ、物語的コードに逆らう
- 象徴コード(SYM)
- 意味素コード(SEM)
- 文化コード(REF)
これらのコードは、客観的な関係性としてテクストの中にある訳ではない、ということに注意する必要がある。バルトが自らのテクスト分析において導入した道具、補助線に過ぎない。
「書き得る」テクスト
反転不可能と反転可能というテクストの要素を対称させたことにより、バルトは読み得る(lisible)テクストと書き得る(scriptible)テクストに関する理論を構築できるようになる。*2
読み得る=二者択一的。作者によって明確なメッセージを込められた作品について、それを受容するか却下するか。
書き得る=アレンジ的。作品の内容を「自分なりに解釈する」ことで、新たなテクスト、あらたなエクリチュールの生産主体となる。
……少し考えればわかるように、ほとんどの活動は後者の振る舞いで行われている。すでにある現象に名前を与えて説明することで、「そうではないものもある」ということを強調したかったのだろう。
「読み得る」「書き得る」という分類は、それ自体は二者択一的なものではない。あるテクストが「部分的に読み得る/書き得る」ものであることはすでに説明されている。例示されている『サラジーヌ』もそうである。
→「完全に書き得るテクスト」の観念こそが、バルトが初期に考えていた「ゼロ度のエクリチュール」を持つテクストなのではないか、と著者は考えている。
【今回の三行まとめ】
- 読者は、作品を自分の文脈の中で解釈し(間テクスト性)、再生産しながら読んでいる。
- テクスト分析のベースとなる"レクシ"は読者による主観的な意味の単位であり、読むたびに変わり得る反復不可能なものである。
- バルトはテクストを5つのコードの基で分析する。そのうち物語の進行に関わるコードは反転不可能であり、そのまま受け入れるしかないが、そうではない部分については読者が反転可能(「書き得る」)な内容である。
【今回の宿題】
- 5つのコードをもう少し詳しく
……長くやっていた気がしたけど、記事にした分量は結構少ないな?
まさに自分が考えていたことを説明されて、しかもそれを実践的に分析に用いているのを見て目から鱗といった感じ。しかしそうされると僕のやることがなくなってしまうのだけど……。
「何となくわかる」ことだったので、改めて文字にして整理する必要がなかったというのが記事の短さに現れているのか。逆に「わかっていると思うんだけど、なんだかむずむずする」ところもあったので気をつけなければいけないかも。
それでは
KnoN(100min)