KnoNの学び部屋

落ち着きのない大学院生が専攻に関係ない(むしろそっちのけで)学んだコトを記録しておく場所

〈私〉をひらく社会学 その1

体調は回復したようです。寝たりない感じはあるけど。

テレビ付けたら日本代表の練習試合(コスタリカ戦)をやっていて、気になりますがまずはこっちを片付けます。

 

ロラン・バルト』がまだ途中ですが、今日は別のテキストをやります。

全部で12章ですが、大学の講義に則した形で4つに分け、不定期連載の予定です。

 

今日は

〈私〉をひらく社会学 (大学生の学びをつくる)(豊泉周治ほか、2014)

第1章 格差と貧困の時代をどう見るか

第2章 なぜ女は生きづらいのか、なぜ男は生きづらいのか

第3章 〈権力〉への欲望

第4章 働くことの意味

をやります。

〈私〉をひらく社会学 (大学生の学びをつくる)

〈私〉をひらく社会学 (大学生の学びをつくる)

 

 

第1章 格差と貧困の時代をどう見るか

 かつての「一億層中流社会」から「格差社会」への変化が語られるようになって久しい。しかしかつての「総中流」が"神話"であったように、「格差社会」の言説もまた神話性を帯びている。

 「格差社会」の実態を見据えることで、「貧困の生きづらさ」を考える。

 なぜ、「神話」なのか。かつて「総中流」の神話が、実際には当時も歴然と存在した経済的・社会的な格差を不問にし、それを生み出す社会構造を不可視にしたように、現代の神話は格差を不可避のもの(あるいは不可欠なもの)として、それを生み出す社会構造を不問とし不過視とするからである。

 

 貧困の再発見は、必ずしも格差を生む社会の再発見には通じていない。

労働の中の搾取の構造が「見えない」ようにされ、貧困は「自己責任」として個人に帰責されてしまう

→あらためてマルクス理論を見直し、搾取の構造を考え直す。

 

 マルクスは労働者階級(プロレタリアート)の生きづらさの問題を「人間の疎外」にあると考えた。類的存在(仲間)から見捨てられることにより、個人は孤立し、苦しんでしまう。

→かつてホリエモンこと堀江貴文は「カネだけが唯一のフェアな基準」と主張したが、これは様々な要因で疎外される関係の中で、カネだけが平等な関係性を生み出すものとしての基準となり得る、ということを述べてている。それは同じ「勝ち組」よりもむしろ、疎外される側の人々に共感を生み出した。

→しかしマルクスは「唯一、フェアな」と"神話化"された貨幣に対し、「歴史的・一時的な産物」に過ぎないと判断している(脱神話化)。その神話に隠された搾取の構造を明らかにすることが『資本論』の目的である。

 

 重要なのは、社会が必然として受け入れいている格差社会の現実は、都合良く神話化されたものであり、その解決は個人ではなく社会の構造において行われなければならない、ということである。

→「社会システムによる生活世界の植民地化」に対抗する。

 

 

第2章 なぜ女は生きづらいのか、なぜ男は生きづらいのか

 ジェンダー(gender)

=先天的・身体的・生物学的な性別(sex)に対する文化的・社会的な性別*1

→「社会的・文化的に形成された男女の不平等を、生物学的な性差として自明視させ、隠蔽する現代社会の仕組みを批判する言葉」

 

 日本においては1990年代に「ジェンダーフリー」の標語の元に、固定的な性役割の社会通念からの解放が指向された。

 しかし2000年代になると保守層からの反動をうけ、今の若者に取って「ジェンダー」を巡る議論はリアリティを感じられないものになっている。

→同時期(90年代)に推進された「個性重視」の教育が、問題の本質を覆い隠してしまった。

 

 ジェンダー」により社会的に(それとは見えない形で)規定された生き方が、「個人の選択・個性」として扱われ、それによってもたらされる不平等は「自己責任」とされてしまう。

 また「個性を生かす教育」は現場の評価において「個性化の競争」に転化し、無理矢理にでも「自分らしさ」を追求しなければならないという強迫観念につながる。

 「他人とは違うこと」を求められた個性は、他者との協調を拒絶し、それを恐れればステレオタイプな「男らしさ」「女らしさ」への一体化をもとめる心理に変化してしまう。

 「個性」が「競争的な環境の中」にあって輝くものであるとすれば、「個性重視」のなかで中学生たちは、「自分らしさ」を求めれば求めるほど競争的な環境にとらえられ、他人と切り離された孤独な「自分らしさ」に分断されることになりかねない。

 ……「自分らしさ」に追い立てる「個性重視」は、一人ひとりを「個性化」の競争に巻き込んで、むしろ生きづらさを生む源泉となるのである。

(改行は筆者)

 

 「進路選択」「働き方」といった極めて個人的に見える事柄でさえ、社会的な「かくあるべし」という見えざる圧力、あるいは社会構造の中に組み込まれたバイアスによって強く干渉を受けている。

→「個人的なことは、政治的なこと

 

 

第3章 〈権力〉への欲望

 社会の中に存在する、個人の主観的な意図とは離れて自律的に作動するメカニズム。これが〈権力〉である。

 なぜ権力は必要なのか。権力が私たちをどのように支配してきたのかを考える。

 

 ミシェル・フーコーは『監獄の誕生』のなかで18世紀における「規律権力」の発展のメカニズムについて解説している。

 規律権力とは、個人の精神と身体にはたらきかけることで「規律を内面化させる」力である。その規律は個人を内側から監視し、自発的にそれに従うようにと誘導する

→最も象徴的な例としての「パノプティコン

 

 のちにフーコーは「生権力」という概念も考案している。これは文字通り「生かす権力」であり、社会(国家)の利益のため構成員(国民)の人口や健康状態を管理しようとする権力をさす。

→「生」という私的な問題に、公権力が介入してくる。

 

 現代は「監視社会」化しているといわれる。

 しかもそれは、各種の思想統制や優生学的な生の管理といった中央集権的な監視から、日々の振る舞いが匿名の多数によって見られているというユビキタスな監視に変わってきている。

→ここには人々の中にある「監視する欲望」が関係しているように思われる。

 

 人は自分のプライベートを隠したいと思う反面、他人のプレイベートを覗き見たい・監視したいという欲望を持っているのではないか。それが全体として「監視社会」への批判の手を緩める、許容してしまうことにつながっているのではないか。

他者の「不道徳な振る舞い」を見つけ出し、眉をひそめる・批判することによって、自分が不道徳でないことを確認し、カタルシスを感じる

→多数が少数を監視するシノプティコン型社会。ネットに置ける「炎上」。

 

 このような監視社会の強化は「貧困の犯罪化」を生み出す。

→「体感治安の悪化」により社会の寛容度が下がり、刑罰が厳しくなる。権力の介入の度合いが増し、世の中がますます息苦しくなっていく。

→特定の集団に対する偏見が広がり、社会不安の増大が加速する(モラル・パニック)。

→社会的マイノリティ(貧困層、移民など)への疎外(=差別)が「仕方のないこと」と受け入れられるようになってしまい、あたかも「犯罪者予備軍」として腫れ物のように扱われる。

本来であれば雇用や福祉の問題として解決すべき貧困問題が、社会秩序に対する漠然とした不安がパニック化することによって、治安によって"解決"すべき問題へと変換されてしまう。

 

 「秩序を乱す者」「怠惰な者」への差別的なまなざしは、「普通のレール」を外れてはいけないという息苦しさを社会の中に作り出す。そしてその息苦しさが他者への監視を強めるという悪循環を生んでいるのである。

 

第4章 働くことの意味

 「働かざるもの、食うべからず」という格言は、新約聖書のパウロの言葉に由来するものであるという。そしてキリスト教社会、とくにプロテスタントカルヴァン派の文化圏では「天職」概念と「勤労倫理」により労働が尊ばれている。

 これを「資本主義の精神」の揺籃としたのが、マックス・ヴェーバーであり、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』であった。

 

 「勤労が善」という倫理は、裏返せば「怠惰は悪」という倫理である。

 近代の「理性」第一主義の中で、「合理的な勤労」を行わないものは「非理性」の存在として、抑圧・矯正の対象とすらされていた。

 そしてその理性第一主義は、極限まで合理化された官僚組織によるガチガチの合法的支配(「鋼鉄の檻」)を生み出したのである。

 

 日本企業の経営の特徴は「終身雇用」と「年功型賃金」であると言われていた。これらは「男性稼ぎ手型モデル」と言い換えることも出来る。

 つまり一家の長たる男性が、40~50代において年功型賃金のピークを迎え、専業主婦の妻と子を養うだけの稼ぎを得る、というモデルである。

 これは第2章で言及したような強固なジェンダー構造の現れのひとつであり、個人の生き方を強く規定するモデルだとも言える。

 

 こういったソリッドな社会構造は崩れ、流動的な近代(リキッド・モダニティ)の時代を迎えたと言われている。

 雇用の柔軟化の名のものとに非正規労働者の割合は増え、現代の労働者は長時間の過酷な労働(しかも年功型昇給も期待できない)と非正規の不安定な生活とという、分裂したふたつの問題を抱えている。

 

 しかしそもそも、なぜ「働かなければならない」のか。そこから問いを立てる余地がある。

 「勤労の尊重」という価値観は、絶対的なものではなく相対化させうる"神話"である。それが資本主義社会・近代国家において都合のいい倫理であったから採用されているに過ぎない。

 そしてその「都合の良さ」がジェンダーの規定、権力と監視に結びついて「働くことを強制する」「働いて稼がなければ一人前ではない」という通念を生み出しているのである。

→結果として「働けない」人には「怠惰な人」というレッテル(スティグマ、恥辱)が貼られ、社会から疎外される

 

 いわゆるブラック企業のような問題も顕在化している現在では、「働くこと」が「食べていけること」つまり社会の成員として「一人前」であることと必ずしも結びつかなくなっている。

 ベーシックインカム(=最低限の生活に必要な金額を全員に一律で給付する。働くことはすべて選択肢のひとつとなる)という大胆なアイデアも提案されているが、社会の認識を変えない限りは問題の解決は難しいだろう。

 

 

【今回の三行まとめ】

  • 現代の人々が感じる生きづらさには社会の構造的な問題に起因するものも多いが、「格差社会」や「自己責任」の神話によって隠蔽されてしまっている。
  • ジェンダーや貧困、労働にまつわる生きづらさは、現実の社会の状況と、内面化された「倫理・規律」の分裂によって引き起こされている。
  • 解決のためには現実を変えるか内面化された倫理を変えるかだが、いずれも容易ではない。

【今回の宿題】

  • とくになし

 

……ちょっと一回でやるには分量が多すぎた気がする。

 駆け足になって自分の考えとかを差し挟む余裕がありませんでしたが、まあ読書メモみたいなものなのでこれで良いことにしておきましょう。

 「自分らしい生き方」と「(内面化してしまった)社会からの要求」の対立は非常にしんどいです。現在進行形だからよくわかる。

 こうして社会学の分野からそのメカニズムを明らかにすることは進んでいるとは思いますが、それが社会に浸透して発想の転換が起こるには、時間の経過を待つしかないように思います。

 

それでは

 

KnoN(120min)

 

*1:ただしこの定義にも議論があり、日本と外国では認識も異なる。