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KnoNの学び部屋

落ち着きのない大学院生が専攻に関係ない(むしろそっちのけで)学んだコトを記録しておく場所

ロラン・バルト(シリーズ現代思想ガイドブック) まとめ(終)

◇情報と交流 4.『ロラン・バルト』 ◯完結まとめ集

雨降りの二日目。

今朝初めて知ったが、明日の夜に父が帰ってくるらしい(単身赴任中)。

……ちょっと気まずい。

 

引き続き

ロラン・バルト (シリーズ 現代思想ガイドブック)(グレアム・アレン、2006)

全体のまとめ

をやります。

長かったですが、いよいよ最終回

 

ロラン・バルト (シリーズ 現代思想ガイドブック)

ロラン・バルト (シリーズ 現代思想ガイドブック)

 

 

第一章 エクリチュールと文学

第二章 批評的距離

 バルトはサルトルの『文学とは何か』に応答する形でその批評活動を始める。そして形式を重視し「神話」の欺瞞を暴く「エクリチュール」という発想に思い至る。

 

◯作者と読者は文学へとアンガジュマン(参加)しなければならない

サルトルの主張。近代革命以前の文学は、ブルジョワ階級がブルジョワ階級に向けて各こと自体が、体制批判への「参加」だった。

→ブルジョワ自身が体制化するとその論理は成立しなくなる。文学は批判への参加を維持するために前衛的な、読者を攻撃するやり方に傾倒するが、コミュニケーションを拒絶したものはすでにアンガジュマンではない。

⇒バルトはここにエクリチュールによるメタ・メッセージの観点を導入した。

 

イデオロギーの逃れ難い重力

→メタ・メッセージとしてのエクリチュールも、最終的には支配的なイデオロギーに飼い馴らされ、取り込まれてしまう(=文化吸収、アカルチュレーション)。

→文学とはそれ自体が権威であり、権力の本拠である。エクリチュールイデオロギーを伝達するためだけのものに成り下がる。

 

◯ゼロ度のエクリチュールの可能性

イデオロギーの縛りから解放された、ゼロ度/ニュートラル/無活性/無色透明なエクリチュールを用いることで、その重力から逃れることができるかもしれない。

→しかしこれも一時的なものに過ぎない。一般化した時点でそれは支配側の文化に取り込まれている。

 

◯「文学」から距離を置くことによって得られる批評的視点

イデオロギーを内包する「文学」(あるいは神話)に対し、それと一体化するのではなく批評的なまなざしを維持することでそこに隠蔽されたものに気づくことができる。

→反例としてミシュレの歴史記述や従来型のラシーヌ研究。実践例としてブレヒトの演劇やロブ=グリエの小説

 

第三章 記号論

第四章 構造主義

 「神話の解体」のためにバルトは構造主義的な思想に接近する。そこではシステマチックな解体により隠蔽されたイデオロギーが次々とその姿を晒しだされていた。

 

記号はシニフィアン(表徴)とシニフィエ意味内容)が恣意的に結びつことで成立する

ソシュールは言語をシステムとしてのラングと、発話としてのパロールに構造化した。シニフィエというシステムから、個別の表徴として無数のシニフィアンが生まれるというモデル。

 

◯「神話」における記号の構造は多層的なシニフィアンシニフィエの結合を含んでいる

「神話」とは「特定のイデオロギーに依拠するにもかかわらず、それをあたかも自然的なものであるかのように装って呈示される表現」のこと

→明示的なシニフィアンシニフィエの関係だけでなく、そこに共示されたセカンド・オーダーの関係が「神話の二面性」を生み出す。

 

◯批評のあり方として「解釈的批評」と「大学批評」の論争があった

→前者は自らが特定のイデオロギーに依拠していることに自覚的であり、それを前提とした議論をしていた。「神話的」な性質を持つ後者に批判的であった。

 

構造主義の考え方を「物語」に拡張していった結果、その生成に作者は不要であることが明らかになった

→文が語と語の結合から成るように、物語を文と文の結合から成るとみる(統辞軸、範列軸)。

物語はシステマチックな意味作用により読者に受容され、「意味の源泉」としての作者は必要ない。

 

第五章 作者の死

第六章 テクスチュアリティ

 しかし、やがて構造主義もひとつのイデオロギーとして「神話」の中に吸収されてしまう。バルトは意味の連鎖の無限性を発見し、「作者の死」を宣告するに至る。

 

構造主義からポスト構造主義

記号論構造主義の発想は「神話の解体」に大きな成果を上げた。しかしそれが一般化してしまえば、構造主義そのものが「神話」と化してしまう(不可避の文化吸収)。

 

デリダによる「構造主義の神話」の解体

構造主義は意味の体系(シニフィアンシニフィエの連鎖)の中心として超越論的シニフィエの存在を前提としているが、それはありえないものである。

 

◯「究極のシニフィエ」の不在による、読書と著述の転倒

→あらゆるシニフィアンは最終的なシニフィエにたどり着けない。読み手がシニフィアンを自らの意味体系の中で再生産的に解釈し、「書くがごとく読む」ことで初めて受容できる。

→絶対的な意味の源泉としての作者は存在しなくなり(「作者の死」)、著作物は読み手にとっての無数の意味の源泉からやってきた引用の織物(テクスト)となる。

 

◯テクストは読者により再生産される

→従来の意味作用(=シニフィアンシニフィエの関係を一般的な意味に結びつける)に対し、意味生成(=読者それぞれの意味の源泉から織り上げられる固有の意味の生成)の営みを考える。

→テクストは断片的に分解され、「意味があるのは分かるがなにを意味しているのかははっきりと断言できない」コードによって再構成される。

 

第七章 中性のエクリチュール

 「書く」という行為はそれだけでイデオロジカルな要素を含んでいる。「快楽」の名の下に全てを相対化することでその暴力を「中性」なものにしようと試みる。

 

エクリチュールとエクリヴァンス

→ポスト構造主義的な発想を吸収し、語法を整理する。

エクリヴァンス=イデオロギーをもつ(体制内的な)言語活動。内容を伝えることに主眼がある。

エクリチュール=体制外的な言語活動。表現そのものに目的があり、意味は受け手がそこから自由に生成する。

 

◯「書く行為」による言説は、どれだけ注意深く行ってもイデオロギー的な要素を含んでしまう

断言という「暴力」

→自らの言語活動の中で、断言を回避するような言語や語彙のずらしを駆使することで、暴力に対置される「中性のエクリチュール」を実現しようと試みる。

 

◯「中性のエクリチュール」は身体に由来するものに生まれ得る

→左右双方のイデオロギーから避けられている要素であるから。

 

◯快楽主義により「真実という超越論的シニフィエ」への回帰を回避する

すべてのイデオロギーは「快楽」の唯一の基準の前に平等となる

→既存の価値観と一体化することにより生まれる「快楽」、それを転倒し失うことによって生まれる「享楽」、両者を共に味わい、「二重に引き裂かれ、倒錯した主体」となることができる。

 

第八章 音楽と写真

第九章 『明るい部屋』

 ここまでの思想は文芸の世界に留まらない。音楽、そして写真の領域にバルトはその考察を拡大する。そして方法論のディスクールと私的なディスクールをブレンドしたエクリチュールを呈示するのである。

 

◯文芸における「読者による再生産的解釈」は、音楽における「愛好者による演奏」に相当する

→作曲者・プロの演奏者による演奏を記録されたものを通して単に消費する(=意味作用をそのまま認める)のではなく、自ら演奏することによってそこに意味生成を行う。

 

◯写真は他の記号に比べ、明示的な意味が強すぎる

→本来明示的な意味(デノテーション)と共示的な意味(コノテーション)が不可分に立ち上がるものだが、写真では前者が強く打ち出されているため、ますます「神話化」が強固になる。

 

◯写真から「第三の意味」を読み取ることで、テクストに連なる広い意味生成の広がりを持ち得る

→「表徴の意味」「明白な意味」に次ぐ「鈍い意味」(=はっきりとは説明できないがたしかに存在する意味)からテクストの快楽/享楽を味わうことが出来る。

 

◯写真には「時間性の問題」が存在する

→写し出しているものは「かつてあった」ものであり、それは「いまはない」ことを含意している。

「失われたものが再び見出されて、遂にはまた失われてしまう」プロセスが、プンクトゥム(「第三の意味」の換言)の二重の効果として見出せる。

 

 

【今回の三行まとめ】

  • イデオロギーがあたかも必然的なものを装って現れることをバルトは「神話」と呼び、その欺瞞を暴き続けることを生涯の課題としていた。
  • 前期は構造主義的な、後期はポスト構造主義的なアプローチでそれにあたっていたが、重要なのは「批評は常に「神話」に吸収される危険があり、つねに新しい切り口に更新していかなければならない」ということである。
  • 意味の連鎖の中に「究極のシニフィエ」は存在しない。読者が作者となり、読書は著述となることで、自らの意味体系の中からその都度テクストを織り上げていくのでだる。

 

【今回の宿題】

  • 第五章〜第七章あたりの内容理解が不十分かもしれない

 

……なんという達成感。自分がうっすらと持っていた考えを充実させ、さらに射程を大きく拡張しただけでなく、3週間にわたって取り組んできたことを一記事にまとめて自分の言葉で理解することが出来た。

 いざ最後となるともはや語ることもなく、心地よい疲れがテクストの快楽を与えてくれています。

 バルトの原著自体にも興味は出てきましたが、少し本筋から離れてきている感触もあるので一時停止。このアイデアを頭に留めたまま、また違う切り口から自分の問題意識の核心に迫っていきたいです。

 とりあえず明日は『〈私〉をひらく社会学』のその2をやるつもり。その次は『哲学入門 (ちくま新書)』か『わかりあえないことから』のどっちかですかね。

 前にもいった通り、そろそろ情報科学的な横書きのテキストも読みたいけど。

 

それでは

 

KnoN(150min)

 

エクリチュールの零(ゼロ)度 (ちくま学芸文庫)

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現代社会の神話―1957 (ロラン・バルト著作集 3)

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記号の国―1970 (ロラン・バルト著作集 7)

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