KnoNの学び部屋

大学に8年在籍した後無事に就職した会社員が何かやるところ。

〈私〉をひらく社会学 その2

しとしと降り続く四日目。

夕方から少し買い物に出る予定。

 

不定期連載

〈私〉をひらく社会学 (大学生の学びをつくる)(豊泉周治ほか、2014)

第5章 ほしいものは何ですか?

第8章 〈メディア〉が生み出す欲望と愛情

をやります。

 

〈私〉をひらく社会学 (大学生の学びをつくる)

〈私〉をひらく社会学 (大学生の学びをつくる)

 

 

第5章 ほしいものは何ですか?

 GDP(国民総生産)に対する概念としてGNH(国民総幸福量)という考えがある。

 成長期を終え成熟期の社会を迎えるにあたり、私たちは「豊かさ」を物の豊かさだけでなく心の豊かさを含むものとして考え直すようになった。

 しかし依然として世の中は消費社会であり、何かを「欲しい・買いたい」という欲望は尽きることがない。

 この章では、多くの人々が非物質的な価値を認めているように思われるのに、やはり流行の商品を追い求めずにはいられないのはなぜなのかを考える。

 

内田隆三は「消費社会」を次のように定義している。

消費社会

=欲望のシステムが生産のシステムに依存するような構造に組み込まれている。

→産業システム自らが欲求を自分の相関項として生産・操作する

→需給のサイクルが「機能的な必要(need)」という意味や感覚を越えて、「モードの論理(desire)」に従って生起するようになる。

 

◯求められる最低限度の「機能」はどの製品を選択しても充足できる。

→「機能」以外の部分、自由に味付けでき、その本質的な機能とは関係ない部分の「空虚な無根虚性」に従って消費者は購入する製品を選択する。

→「文化」によって規定される望ましさ(=分相応な〇〇)からも自由になり、「ふさわしさ」は自分が規定する。

 

◯消費社会における消費活動を「記号の消費」として定義したのがフランスの社会学ジャン・ボードリヤールである。

→消費社会における商品は単なるモノというよりは、何らかの社会的な意味を持つ「記号」であり、人々は他の商品群から構成される「差異の体系」の中にあるその「記号」を消費する。

→人々は「記号の消費」による自分らしさの表現をより効果的にするために、日々更新される意味付けのコードを常に学習していかなければならない(=流行へのキャッチ・アップ)。これを「日常的ルシクリャージュ(recyclage、再教育)」という。

⇒参考 ロラン・バルト(シリーズ現代思想ガイドブック) その3(後編) - KnoNの学び部屋

 

◯アメリカの社会学ジョージ・リッツァはこの過程を「再魔術化」とよんだ。

マックス・ヴェーバーが近代社会を「魔術からの解放」としたことに対する呼称である。ヴェーバーは、中世における伝統が知性によって解体され、合理的になっていくことを指して「脱魔術」としていたが、現代においては「モードの論理」が知性を凌駕して非合理的な消費に向かわせていることを指している。

→「現代の消費者が、モノやサービスなどの商品を欲しがるように魔術をかけられ、教育されている」

⇒人々は消費社会のイデオロギーを「神話」として受け入れてしまっている。

 

◯経済学者の佐伯啓思は消費社会を「資本主義の純粋型」だと主張している。

→資本主義を「企業活動の資本投資における経済の無限拡張運動」だと定義する。

→「必要なモノを手に入れるため、手持ちのモノを交換可能な形に変え、それで目的物を手に入れる(W-G-W')」という過程が、「手元の貨幣を投資して、市場で交換できる商品を生産し、これを売って手元の貨幣(資本)を大きくするG-W-G')」という過程に発想を転換することが「資本」の誕生であった。*1

→「資本の拡大のためには、生活に必要か否かということよりは、市場で売れるか否かが決定的に重要」

 

◯従来のマルクス主義が市場メカニズムを「儒教と供給による資源の最適配分」と考えているのに対し、佐伯はこのプロセスの中に「供給することが需要そのものをつくりだすメカニズムが埋め込まれている」と考えている。

→広告などにより欲望を喚起させられる、「欲望の拡張」。

小林一三(阪急グループ、宝塚歌劇団の創業者)の「乗客は電車が創造する」もこれと同じ発想だろう。

 

◯大量生産・大量消費型のライフスタイルを批判するような運動も環境保護との関わりの中から生まれてきている。

スローフード運動、ロハスLOHAS;Lifestyle Of Health And Sustainability)など。

→しかしこれすらも新たな消費を生み出す(特定の商品やサービスを宣伝する)ための記号として消費されている。

→「現代の資本主義は反商業主義的なラベルをも貪欲にとりこんでしまう逞しさを備えている」

イデオロギーへの文化吸収(アカルチュレーション)

 

◯しかし近年ではこのような消費を良しとしない若者(「シンプル族」)が増えてきている。

→経済的な制限の面もあるにしても、価値観の転換と新たな消費文化構築への試みが起こっているのかもしれない。

 

 

第8章 〈メディア〉が生み出す欲望と愛情

 モノへの執着が薄くなることに比例するように、若い世代の恋愛が淡白になっていると言われている。若者の64%が「交際相手なし」という調査結果もあるが*2、恋愛に関心がないわけではないということは「純愛ブーム」が依然として継続していることからいえる。

 このギャップの原因として考えられるのが「恋愛の理想と現実のギャップ」である。われわれが生きる時代や社会のつくりだす恋愛イメージ(「本当の恋愛」の観念)が、実現を困難にする矛盾を内部に抱えている。

 

◯「恋愛感情(欲望)はメディアによってつくりだされている」

→恋愛の関係性は主体Sと対象Oだけでなく、媒介者Mによって作り出される。この三者の間に生じる模倣=媒介の関係を「欲望の三角形」とよぶ(社会学者・作田啓一の議論)。

→作田によれば「欲望とは他者の欲望」である。主体Sが対象Oを欲しいと思うのは、対象Oを欲しする他者を媒介者Mとして、主体Sがその欲望を「模倣」するからである。

⇒「隣の芝生は青い」

 

ドイツ観念論哲学における「承認をめぐる闘争」という概念がこれをうまく説明する。

→私たちは「自分と同等以上の優れた他者に認められたい」という欲求(承認欲求)を持っている。

→この場合、重要なのは自分と他者の相互の関係であり、その間で争われる対象それ自体には本質的な価値はない。

⇒「楽しく争う」ことが目的なので、勝ち取ったモノ自体はどうでも良い。

 

◯この「手段的な恋愛」の例として夏目漱石の『こころ』、あるいはフローベールの『ボヴァリー夫人』を挙げている。

→共に主人公が媒介者M(友人K、恋愛小説のヒロイン)から欲望を模倣し、恋愛への欲望が生まれるさまを描いている。

→しかしその媒介者が「実在的」関係(友人K)か、「非実在的」関係(恋愛小説のヒロイン)かという知が良いがある。

→エンマ(『ボヴァリー夫人』の主人公)は読書体験(バーチャルなメディア空間)によって生産された、実在の対応物がない欲望に囚われている。

 

◯一方で純粋に主体Sと対象Oの間の関係性のみを目的とした「目的的な恋愛」の関係も確かに存在する。

→純愛ブームの火付け役、『世界の中心で、愛をさけぶ

→この場合、「愛するという欲望は、対象をただたんにモノとして所有する通常の欲望とは異なり、対象からも「欲望されたい(=愛されたい)と欲望する」こと」になる。

→私たちがイメージする「本当の恋愛」?

 

◯しかしこの「本当の恋愛」「純粋な関係性」は非常に不安定なものである。

→お互いの欲望の釣り合いが取れなくなった時点で簡単に破綻する。例えば制度としての結婚のように「気持ちが冷めていても離婚すると色々と不都合があるから離婚しないい」ということが成立しない。

常に相互の欲望と承認を確認しあう「儀式」「駆け引き」が必要となり、それは大きな心理的負担となる。

 

◯「実在的/非実在的」「手段的/目的的」という二つの軸による恋愛の分類が発見された。すると当然「目的=非実在」的関係というパターンも想定できる。

→現代におけるアイドル、二次元キャラへの恋愛感情

→実は『世界の中心で〜』の中にも「ヒロイン(亜紀)の死」という形でこの関係性への移行が盛り込まれている。

 

◯「目的=非実在」的関係において、主体Sの欲望に対し対象Oからの欲望=愛という見返りは期待できない。

「無償の愛」という「究極の純愛」として崇高さを帯びる。

→「偶像(idol)に対する崇拝にも似たナルシスティックな崇高さ」

 

……個人的にはこの考え方、嫌いである。

 「無償の愛」といえば聞こえは良いが、「相手の要求に常に答えるために緊張しているのは疲れるから、相手にはいなくなってもらおう」「自分に余裕があるときにだけ"愛"を提供しよう」「見返りもないのに愛を与える自分ってカッコイイ」のような身勝手さが鼻につく。ナルシシズム自体を否定する訳ではないけれど。

 

……少し話題はそれるが、いわゆる二次元オタクが時期によって「嫁」を変えるのは、「興味がなくなったら"無償の愛"も提供しない」ということの現れなんだろうか。

 

◯現代における「本当の恋愛」は心理的負荷の大きいもので、人々は「究極の純愛」の崇高さに束の間の癒しを見出しているのかもしれない。

→しかし愛の関係がさまざまな戦略や手段から解放され自己目的化するのは、社会変動の必然的な帰結である。

→脆い純粋な関係性を外部から支える多様な社会的連帯と社会制度を紡ぎだしていくことが求められている。

 

 

【今回の三行まとめ】

  • 消費社会において消費とは「記号」(=そこにこめられた社会的意味)を消費することであり、またそうして新しいモノを購入し続けることが正しいという「神話」の元に成り立っている。
  • 現代において「愛情の欲望」である恋愛は、自己目的化した非常に不安定なものとしてイメージされている。そしてそれは時に「非実在」の対象に対する「無償の愛」へと転化する。
  • いずれにしても新しい価値観を支える新しい社会制度・連帯をつくりだすことを試みていかなければならない。

 

【今回の宿題】

  • 特になし

 

 

……二章分しかないとおもって少し書きすぎた。時間もないのでここは簡潔に。

 消費社会については色々なところで色々な言説を聞く。消費意欲の減退はもうどうしようもないこととして、新しい構造を模索する必要があるのには同意する。

 恋愛は、やはりどうしても「無償の愛」が気に入らない。というか「安全な痛み*3」の論理を突きつけられてからどうしてもそこに落ち着いていられない気分になる。

 

 ずいぶん出歩きやすい天気になったんで、予定通り買い物に出かけてきます。

 

それでは

 

KnoN(140min)

 

消費社会の神話と構造 普及版

消費社会の神話と構造 普及版

 

 

世界の中心で、愛をさけぶ 小学館文庫

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*1:G=貨幣;Geld、W=商品;Waren

ともにドイツ語。

*2:「若者の結婚や家族観に関する調査結果」(内閣府、2011)、若者=20代と30代

*3:宇野常寛ゼロ年代の想像力』の第十三章で主に論じられている概念。

大雑把にはこの記事の脚注を参照のこと。