哲学入門 その7(前編)
少し肌寒い日中。
月曜日が期末テストなんでぼちぼち勉強を始めておかないと。
引き続き
哲学入門 (ちくま新書)(戸田山和久、2014)
の
第七章 道徳
の前半をやります。
前回同様、記事書いてる本人が内容わかってないです。
「訳わかんねぇ!」ってなったらテキスト本文を見てください。
そして僕に解説してください。
第七章 道徳
前章では「デフレ的な自由(=限定的な自由、合理的で効率的な自己コントロールができること)」は決定論と両立し、それは望むに値する自由であるということを確認した。
しかしそれだけでは道徳的評価の対象にはならないように思える。
この不足しているものが何かを考えていく。
なにが「えらい」のか
まず道徳は一種の制度であることを確認しておく。
→賞賛、非難、責任追及、処罰といったやりとりによる社会的規範。
→道徳の対象となるためには、自分の意志でなんらかの行為を行ったこと(自由)が必要になりそう。
この「道徳的に重要な自由意志」を明らかにするために次の三つの課題がある。
Q1:自己コントローラーとしてのデフレ的な自由意志が、道徳的概念システムの基盤として働く「道徳的に重要な自由意志」になるためには、何が必要か?
Q2:それが、動物の持ちうる源自由から進化する道筋はどのようなシナリオなのか?
Q3:自由意志が道徳という制度の中心にあるという直観は、真なのか?
デネットは自由の進化と、並行して進んできた心・理性・表象・意味の進化に、さらに自己の進化と言う観点を付け加える。
しかしそのまえに前章で人間らしい自由を差別化する要素とした「言語を介した反省的検討」が何をもたらすかを考えてみる。それは次のようなことである。
- 自分の動機・目的の評価と反省
- 自分の動機の合理性についての議論
- 他人の目的や知識の言語を介した導入と、新たな自分の目標としての設定
- 自己を構築する自由
まずはこの「自己を構築する(self-making)自由」について考える。
物語が自己を形成し、自己が責任を生成する
第一に「われわれの価値(観)や好みは、あるていど自分で自分に与えたもの」である。
⇒「合理的な判断」の基準を恣意的に設定してきている。
→責任ある主体であるためには、ある程度の自己(=判断基準)を自分で作り上げた歴史が必要となってくる。
→「責任のない自己」から「責任のある自己」への移り変わりを追う。
「自己」というものも、実体としてのそれが見つからない「存在もどき」の一種である。
→デネットは「自己は実体というより組織化のされ方」であるとして定義した。
何らかの仕方で自分とそれ以外を区別している・違う仕方で反応しているとき、そこには最小限の自己(=原自己)があると考えられる。
原自己にどのような進化が起こって人間の自己が生まれたのか。デネットの仮説は「自己は"延長された表現型*1"の一種である」というものである。
- 身体の表象を形成する
=物理空間的な自己の組織化 - 自分の内的な状況がわかる(反省能力)ようになる
=目的と行為の一致の検討・時間的な自己の組織化
→このようなステップをへて「自己」は知覚・理由・行為を統合するように組織化される。
さらにデネットはこの組織化の"つなぎ"として言語的要素=物語(narrative)を想定している(「物語的自己」)。
→「人間の自己の材料は物語」「自己が先にあってそれが物語を語っているのではなく、話が自己を作る」
……『〈私〉をひらく社会学』でも同様の話が出てきた。人間は自分の振る舞いを「物語(narratibe)」のラインに則したものとして体系化することにより、理解可能なものにできる。
そして著者(戸田山)によればこれは「ポストモダンの匂いがする」発想らしい。
「道徳的に重要な自由」の担い手であるためには「自己コントローラーであること」に加えて、「自己が何らかの意味で首尾一貫したものになっていること」が必要だ。
→その場その場でもっとも合理的であったとしても、それがバラバラでは道徳的な評価の対象にならない、という直観。
→A1:自己と呼ばれる組織化を経由している行為が、責任ある自由な行為
責任を取ることが自由な意志を規定する
こうして「道徳的に重要な自由」とは何かが明らかになった(らしい)。
次はこのような自由がどのようにして発生してきたのかが問題となる(Q2)。
伝統的には「自由に行為したかの判断→責任の有無」という順番で思考される。
しかしデネットはここであえてそのプライオリティをひっくり返そうとする。
→責任があるとみなすよい理由があるときに、人々には自由があったと判断する
→「他行為可能性にかかわらず行為に責任を取るという実践」が、道徳的責任の中核をなす「真の自由意志」を生み出している。
この仮定の下で描かれるシナリオは次のようなものである。
- "協力"の進化
→「血縁選択」と「互恵的利他行動」により説明できる。- 罰を通じた「協力すべしという規範に従うことを強いる実践」の発展
→集団に合わせる選好、反するものを罰する傾向性の進化- 協力の「ふり」と「見破り」のいたちごっこ
→「進化の軍拡競争」- 「協力的だ」という評判を獲得するための最良の方法としての、協力の実践
→集団の信頼(?)を勝ち取るために、実践によりそれを示す
→「道徳的な基準に照らして正しいことを行うように自己を再プログラムするエージェント」として自分自身を進化させる。
4.の段階に達するためには「自分の未来の行動を予測する能力」「自分の行動をコントロールする能力」が必要である。
→デネットは「コミュニケーションの進化がこれらの能力の進化を後押しした」と考えている。
→行為の理由を尋ねあう言語共同体に属することで、自己の状態を常に反省的に考える必要が生まれる。しかも言語の中でその状態を説明する語彙が用意されている*2ことが、自己モニタリング・自己コントロールの能力をかさ上げした。
このようにかさ上げしてもらった能力から、〈責任をとる〉という実践が生まれる。
子どもは、たえずやったことの理由を聞かれる。「どうしてそういうことすんの?」。子ども的には聞かれても困るのである。子どもの観点からは、そうするしかない、というか、そうなっちゃったんだから。そうして次が続く。「あんたのせいよ。あやまんなさい」。
こうして、いまのところ自分が制御できない出来事に責任をもつことを教わる。
(強調は原文ママ、改行は筆者)
→A2:人間に特有な自由意志は、責任を取るという実践にルーツがあり、その実践はヒト科に特有の(=文化を可能にしたようなタイプの)協力の結果として現れてきた。
「望むに値する自由」は実は存在しない?
こうしてデネットは自由と責任の概念をデフレ的に再解釈し、それが決定論的世界の中でも進化可能(=自由と決定論は両立可能)だというシナリオを示してくれた。
しかし問題がない訳ではない。
◯デネットの言う人間的自由は、言語コミュニケーションや社会的構築による共同幻想なのではないか?
→「制度としての自由」なのでは?
◯デネットは自由に対する伝統的な問題設定を解体し、「われわれ事実としてどのくらい自由なのか」「望むに値する自由とは何か」というように立て直した。
しかしデネットは「望むに値する自由」があるとして、「それが実際にも手に入る」と考えてしまっているのではないか?
→「望むに値する自由(道徳的に重要な自由)」が実際には手に入らない、という事態も充分に考えられる。
デネットの想定する自由が実際には存在しない、つまり「ハードな決定論」が真である可能性がありうる(Q3)。
このときの「自由意志なしの道徳」については、別に検討を行う必要があるだろう。これが後半のテーマとなる。
【今回の三行まとめ】
- 自分自身を「コントロール可能なもの」「一貫性があるもの」として組織することがら「自己」が生まれる。「自己という組織」を経由した行動が責任の対象となる。
- 生存戦略としての「協力」の中で「責任を取るという実践」が生まれ、それが「真の自由意志」生み出す。
- デネットの議論は「自由と決定論が両立するシナリオ」を呈示したが、「道徳的に重要な自由」が実在することは証明できていない。
【今回の宿題】
- 「自己は実体というより組織化のされ方」の意味
- 「責任があるとみなすよい理由があるときに、人々には自由があったと判断する」の意味
……とりあえず全般的にわからん。第六章あたりから手に負えなさを感じている。
ここでの議論も「デネット→トンプソン→戸田山」と2回の整理を経たものであるはず何だけど、あと一回くらいフィルターにかけてもらわないと理解できない気がします。
デネットの議論が革新的だということは度々強調されているんだけど、そもそも「伝統的な議論」の方も知らないので入り組んだ議論の必要性がわからん。ここらへんは入門として適当でない気がする。
あと3回くらいかな?もう少し頑張ってみよう。
それでは
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*1:延長された表現型
=身体的な区別以外の自他を隔てる境界の概念。自動車を運転するとき、その身体感覚で狭い道を通り抜ける、というようなことが例に挙げられる。リチャード・ドーキンスが提案。
*2:「義務感」にかられて〇〇した、など