哲学入門 その7(後編)
試験勉強の気分転換にブログの記事を書く。
引き続き
哲学入門 (ちくま新書)(戸田山和久、2014)
の
第七章 道徳
の後半をやります。
前半ではデネットの考える「道徳的に重要な自由」についての議論を確認した。
しかしこの「道徳的自由」の実在自体が保障されたものではないということを忘れてはならない。
後半ではよりハードな立場からの「自由意志なしの道徳」について考える。
自由意志なしで生きる
取り上げるのはデネットよりもよりラディカルな思想の論者たちである。その代表格としてダーク・ペレブームの『自由意志なしで生きる』(2001)という本を議論のベースとする。
ペレブームは自らの立場を「ハード非両立論」と呼んだ。その主張は次のようなものである
ハード非両立論の主張:
- われわれの全ての行為と選択は、次の三つのいずれかである。
①外部決定論的 ②完全にランダム ③部分的にランダム- 行為が道徳的責任に要求される意味で自由である ⇔ その行為が外部決定論的(①)でも、完全にランダム(②)でも、部分的にランダム(③)でもない
- したがって、われわれの行為と選択は道徳的責任に要求される意味で自由ではない。われわれは自由と責任を持たない。
ペレブームは道徳的責任を「あるエージェントの特定の行動が賞賛/非難に値するものとしてエージェント自身に帰属する」ものだとして考えている*1。また自由意志と責任の概念との関係を強く結びつけてもいる(しかしこれは自明ではない)。
→「自由意志が存在しない」と考えたときのシナリオとして次の三つが考えられる。
ここでは最もラディカルな第三の立場から、自由意志の不在が道徳という制度に与える影響を考える。*2
- 「共同幻想」としての自由意志を保持する
- 自由意志は捨てるが、責任の概念は捨てない
- 自由意志と責任の両方の概念を捨ててしまう
残るもの、失われるもの
自由と責任が失われたとき、それに関連して残るもの/なくなるものをまず整理する。
<残る>
- われわれが合理的行為者であること
- われわれが熟慮に基づき検討するエージェントであるということ
<なくなる>
- 行為の主が持つ、「それを行ったが故に賞賛/非難に値する」という性質
一方、伝統的には「賞賛/非難に値する」がなくなると道徳が根こそぎなくなると主張されてきた。典型はスピノザである。
しかし道徳のシステムを二つのパートに分割することでそうではないことを説明できる。
道徳システム=
- 行為の善/悪、正/不正などの区別
- 1.の区別に基づいて、その行為の主を道徳的に賞賛/非難すること
→2.は行為の原因がエージェントにあることを前提としているので、自由意志の不在を認めると成立しないが、1.は自由意志がなくても残る部分である。
その理由は善/悪を決める基準を考え直すことではっきりとする。
→行為の善し悪しがその動機(原因)によってきまるという立場では、自由意志の不在とともに動機が決定論的orランダム的なものとなるので、判断することができない。
→行為の善し悪しはその(原因ではなく)結果によって決まるという立場(=帰結主義)に立てば、自由意志がなくとも基準が成立する。
人についての道徳的評価のうち、ある種のものは残るように思われる。
⇒マイケル・スロートはある種の徳倫理的な要素(=行為ではなく性格特性・人格を評価対象とする倫理)は残るとしている。
ペレブームはより多くのものも残ると主張する。
→倫理的原理の中で自由と責任の概念に依存していないものは保持される。
→「人間をいつも目的として扱い、単に手段として扱うな」という原理など。
結論:
自由意志と責任、非難と賞賛がわれわれの道徳システムから失われても、その結果生じる自己像が、とてもそれとともに生きて行けそうにないようなものになり、道徳が縮減してしまう、といったことはない。
刑罰はいかにして正当化されるか
自由意志の不在は、思っていたほど根本的には道徳的価値や原理を変えてしまうようなものではないということがわかった。しかし例外もある。
→ハードな決定論の立場では、人の行いはむしろ外部からの影響により「その人に起こったこと」である。
→このとき「悪事を犯した者」をどのように扱うことができるのか?
→「ハード非両立論と矛盾しない道徳的に容認可能な犯罪者の扱い方」を考える。
現在、刑罰を正当化する理屈として次のような説がある。
- 応報主義
正当性:罪を犯した者が「悪いことをした」という事実だけに基づいて罰せられる
×:ハード非両立論と矛盾する - 道徳教育論
正当性:悪事を働いたものに対する道徳を教育する手段としての刑罰
×:「罰」という手段が目的(道徳教育)の為に有効であるという確たる証拠がない - 帰結主義的抑止論
正当性:刑罰により社会における同様の行為の再発を抑止し、社会全体の安全に資する
×:刑罰のエスカレート化に歯止めが利かない
×:人を「社会の安全を確保する手段」として使っている点で道徳的でない - 正当防衛論
正当性:社会に加害している者から社会を守るため、ある程度の暴力行使が容認される
×:かつて悪事を犯したが、今現在は危険ではない人には適用できない
このようにいずれも刑罰を正当化する理屈としては成り立たない部分を持っている。
(2.~4.は上記の独立の理由で、1.はハード非両立論との矛盾から)
ペレブームが考える唯一正当化しうるロジックは「隔離」である。
5. 隔離
正当性:社会には自己を守るために再犯の危険のある人を隔離する権利がある
これにはいくつかのコメント付しておく必要があるだろう。
- この考えの元では死刑は正当化されない
- (現在の技術では?)予防監禁はリスクが大きすぎて正当化されない*3
- この理屈が現在のわれわれの直観に反するケースがある
「隔離する」側の社会には、「隔離される」側の人間を「治療(=社会に取っての無害化)」し、"社会復帰"の手助けをする義務がある。
→しかしハード非両立論はどんな治療も認める訳ではない(人間の尊厳を犯すような治療は許されない)。
→「合理的・自律的に行動を制御する能力に訴えかける治療」ならば良い。
→ただしそういう治療法が有効ではないときに、(無期的な監禁と比較したオプションとして)「ルドヴィコ療法*4」的な手段を取る余地については否定していない。
以上がペレブームが描く「自由意志なき世界での道徳と刑罰の姿」である。
しかし著者(戸田山)は次のような点からその実現には懐疑的である。
- 〈自由で責任ある私〉という自己理解が強く受け入れられている
- 社会心理学的知見からは、自由意志の不在が社会秩序を乱す可能性が高いと考えられる結果が出ている
一方で次のことも同時に指摘している。
- 科学の発展に伴い「われわれの自己コントロールは思っていたよりも貧弱である」という知見が積み上がっている
→自由のデフレ化は不可避 - 道徳とその根底にある人間観自体が変わる可能性がある
自由なき世界はディストピアか
ここまで見た「自由意志なき世界」はフィクションの中で語られるような「ディストピア」であるかのようなイメージを持つかもしれない。
しかしペレブームの議論が正しいとするならば、このディストピア像は「意志の自由」と「市民的自由*5」との混同という誤解に基づいている。
→意志の自由・責任という概念がなくとも、市民的自由が保障されているという自由はあり得る。
→「ディストピア」的社会はむしろ、市民的自由が制限されつつ責任だけは取らされる社会だといえる。
ようするに、自由意志の概念があるかないかとディストピアになるかどうかは無関係だ。……むしろ自由意志には、悪への罰という仮面を被った報復感情とか、賞賛を求めての偽善とか、歯止めの利かない自己責任論とか、いろんな悪徳がおまけについてくる可能性もある。むしろそのことにわれわれは注意すべきだ。
(強調は原文ママ)
【今回の三行まとめ】
- 自由意志の存在を認めない立場(ハード非両立論)においても、道徳システムの中の「善/悪の区別」という部分や徳倫理的な要素は保持される。「賞賛/非難」という要素が失われても道徳が極端に破壊されてしまうことにはならない。
- 「自由意志なき世界」における刑罰を正当化する論理は「隔離」である。このとき社会には隔離した対象を「治療」する義務がある。
- 「自由意志の有無」と「一般にイメージされるディストピア」は関係ない。
【今回の宿題】
- ペレブームにおける「道徳的責任」の内容
- 道徳システムの中で残るもの
……久々にまともな記事が書けた気がする。
試験勉強もしなければならないんであとがきは省略で。
このテキストはあと二回やって終わりの予定です。なんだかすごく長かった……。
それでは
KnoN(100min)
Living without Free Will (Cambridge Studies in Philosophy)
- 作者: Derk Pereboom
- 出版社/メーカー: Cambridge University Press
- 発売日: 2006/11/02
- メディア: ペーパーバック
- この商品を含むブログを見る
*1:わかりにくい。解説求む。
*2:これはペレブームの議論の半分に過ぎないが、本書では紙幅の関係上この点にしぼって検討する。
*3:技術的に進歩すれば正当化されうる余地を残している。
映画『マイノリティ・リポート』やアニメ『サイコパス』はそのような世界を描いたSFだといえる。
*4:キューブリックの映画『時計仕掛けのオレンジ』に出てくる暴力性向への洗脳的な治療法。詳細はリンク先で。