現代思想の教科書 その4
急遽日中に予定が入ったせいでこんな時間に。
残念だけど今日はなんとか一本で。
引き続き
現代思想の教科書 (ちくま学芸文庫)(石田英敬、2010)
の
4 無意識の問い ー「フロイトの発見」以後ー
をやります。
4 無意識の問い ー「フロイトの発見」以後ー
本章からは現代思想における「主体の問題系」に焦点を当てる。
ジグムント・フロイトによって新たな見方を得た「主体」に対し、前回までに扱った「意味の問題系」がどのように結びついていくのかを考えていく。
「無意識」の発見
フロイトは1900年に、初期の代表作である『夢診断』を発表した。
この時期の彼の研究が発見したのは「ヒステリー患者の症状は、器官的な疾患ではなく、抑圧された欲望の表現である」つまり「ヒステリーの症状は意味の問題である」ということだった。
→このような症状は、身体が訴えかけてくるひとつの言語である、といえる。
→「夢」も同様。
『夢診断』の意義は、人の心の働きを「心的装置」としてモデル化した最初の試みである、という点にある。
→人の心は「意識」「前意識」「無意識」からなるという「(第一次)局所論」の提示。
→人間の心を「場所」からなる装置として理解しようとした。
- 意識:知覚や注意や思考と結びついた心的活動の場所
- 前意識:言語活動に代表される、意識によって呼び出されうる表象の活動の場所
- 無意識:主体が受け取った様々な刺激・興奮・欲望、そして抑圧された願望内容が記憶として留め置かれる場所
→人間の「主体」は、意識の活動の場所と同時に、言語や表象の活動の場所(=「前意識」)を介して触れている。しかし「意識」にはのぼることがない「無意識」の場所もまた抱え込んでいる。
フロイトが発見して以降、「無意識」は思想のテーマとして中心的な位置を締めるようになる。
→フロイトの精神分析における、3つの理論部門がそれぞれに発展していった。
- 経済論:心的現象を「リビドー*1の経済」という観点から説明する
→政治経済にたいする「欲望の経済」 - 力動論:欲望の抑圧や断念するという活動のダイナミズムを説明する
→社会を動かす「大衆の欲望」 - 局所論:心をモデル化して説明する
→様々な事象の「説明原理」としてのモデル化
→フロイト理論は、人間を身体および象徴作用に根ざす「無意識」を抱え込んだ心的活動の主体、として理解することを可能とし、社会や共同体の主体、欲望を通した経済活動の主体として人間をトータルに捉える展望を現代思想に与えた。
象徴の記号の世界としての「無意識」
「無意識」の発見は、「主体」を「自我」と「無意識」に分断した。
この「分裂した主体」こそが「主体の問題系」と「意味の問題系」を結びつける役割を果たしている。
→主体を、自我や意識としてではなく、記号や象徴の次元に横切られたものとして概念化したときに生み出された、20世紀の知に特徴的な「主体のパラダイム」である。
デカルト以後の近代思想において、いくつかの例外を除けば主体と自我はイコールで結びつけられてきた。
しかしフロイトはそこに裂け目を入れ、意識によって統御される部分と無意識の象徴作用に支配された部分との間に分裂した主体を、「心的装置」のモデルで提示した。
→ラカン「無意識は言語のように構造化されている」
人間は意識・理性を中心に「昼の世界」を組み立てている。しかしその下には、理性から離れたところで意味を決定している無意識の象徴的な活動があるのである。
この新しい「主体のパラダイム」は、心理学的な側面に留まらず、人間の理性・意識を相対化するものとして20世紀を通して重要な役割を担うこととなった。
心理学から離れた中でも大きな仕事を二つ紹介する。
◯フーコー「狂気の歴史」
人間が理性を持って理性の外の無意識の願望(=狂気)を抑圧し、従える過程で「狂気についての学問」として心理学や精神医学が成立したとする。
→人間の主体の原理としての「理性」、その抑圧の対象となる「狂気」という対比は、フロイトの主体の分裂と同じロジックで説明されている。
象徴的な秩序が「大文字の主体」としてあり、それに帰属する「小文字の主体」として「主体」=「臣下」(共にsubject)は自己の同一性を獲得する。
→象徴的秩序の下で自らに記号を与えることで、初めて記号の「主体」が成立しうる。
他にも応援するスポーツチームのグッズを身につけたり、特定のブランド品を所有したりということが「自らに記号を与える」ことの現れとして挙げられている。
主体を自我の明証性という角度から理解するのではなく、象徴的な秩序の効果として成立しているという考え方が、20世紀以降の知の地平を拓いた。
→私が私であることの根拠を考えるときに、「私の意識」の問うだけでは不十分であり、「私を成立させている記号的なシステム」を理解しなければならない。
「技術的無意識」が可能にする記号過程
ここまで「心理的な無意識」「社会的・政治的な無意識」を取り上げたが、21世紀の現代ではもう一つ考えなければならない無意識がある。レジス・ドブレが提起する「技術的無意識」である。
→テレビは毎秒数十〜百数十の静止画像を連続して移すことで、動きのある「映像」として認識させている。
「連続した静止画像」であるという事実は「無意識」の側に追いやられ、「意識」には「動きのある映像」と受け止められるように、技術的なある種のトリックが行われている。
→機械による記号でのコミュニケーションを可能にしている条件としての「技術的無意識」を改めて考える必要があるのではないだろうか?
【今回の三行まとめ】
- フロイトは人間の心の働きを「心的装置」としてモデル化しようとし、その中で表に出てこない「無意識」の領域の存在を発見した。
- デカルト以来の「主体=意識」という発想に対し、「主体=意識+無意識」とその分裂を指摘したことは、「無意識」を記号的・象徴的な場所と理解することで、社会全体の動きを説明する新しい原理をもたらした。
- 「心理的な無意識」「社会的・政治的な無意識」だけでなく、現代ではさらに「技術的無意識」も私たちの心の働きを考えるために考慮しなければならない。
【今回の宿題】
- 「技術的無意識」とは
……イマイチ要領を得ない感じに。
「無意識の発見がスゴイ!」を何度も繰り返しているような感じで、具体的にどうすごいのかあまり説明されていないように感じた。
前回もこの章はすっきりしなかった記憶があるので、そういうものなのかもしれない。小休止。
それでは
KnoN(80min)
*1:様々な欲求に変換可能な心的エネルギー。
自己の内部で変換されたり、他者とやりとりしたりもできる、らしい。