演技と演出 後編
すこし間が空き過ぎたか。
細々と色々なことを片付けたりしてみたりしてみますが、集中力はまだ回復してこないようです。困った。
引き続き
演技と演出 (講談社現代新書)(平田オリザ、2004)
の後編をやります。
第五章 実験を繰り返す
◯平田オリザの演劇の特徴に「同時多発的な会話」というものがあるが、これは会話の内容を聞かせることではなく、複数の会話が折り重なった「世界」を感じてもらうことを目的としている。
……そんなことでは、あなたの伝えたいことが伝わらないじゃないかという方もいらっしゃるでしょう。しかし私は、何らかのメッセージや道徳観を観客に伝えるために、演劇を創っているわけではありません。私は、カクテルパーティーのようなカオス状態を舞台上に提示して、観客に、その世界を様々に感じ取ってほしいのです。
◯劇中の会話は「社会的会話」と「人間的会話」に大別することが出来る。*1
- 社会的会話=社会的なテーマについて。人はその社会的な立場にそって発言する。
- 人間的会話=個人的なテーマについて。当事者には切実だが社会的には重要でない問題。
→二つの会話のスタイルをバランスよく構成しているものが、優れた作品になりやすい。偏るのは作家の作風次第だが、逆の方をきちんと掘り下げることで作品に深みが生まれる。
→「喜劇・演劇的な笑いは、人間的なものが社会的なものの中に侵食してきた時に起こる」と著者は考えている。悲劇も同様。
→「バナナの皮」(=社会的な構造を壊すもの)を実験を通して見つけなければならない。
◯ワークショップや稽古の中で俳優にかける負荷を徐々に強くしていき、それによって得られる反応を見ながら面白くなるように劇を創っていく。
→内部に対する「弱い刺激」「直接の刺激」「崩壊させる刺激」「極端に強い刺激」
演劇は、ある人間が、他の人間と出会ったり、運命と直面したりして、人間的に成長してダメになったり、その変化を描く時間芸術です。ですから、この変化のための適切な刺激を見つけられれば、演劇は成功します。すぐれた演出家は、みなこのさじ加減を会得しているのです。
第六章 演出とは何か?
◯演出家は1870年代に登場した、比較的新しい職業である。20世紀は「演出家の時代」と呼ばれ、演出家の世界観・芸術観をしっかりと反映することが世界レベルの作品をつくる条件となっている。
→演出家登場の理由として「演劇の複雑化」が考えられる。「単純で超人的な演劇」から「複雑で等身大の演劇」へ。
◯ロシアの演出家スタニスラフスキーは「スタニスラフスキー・システム」とよばれる体系的な俳優の養成法を確立し、近代演劇の創始者となった。
=ごく単純に言えば、「役になりきる(=内面を作る)」ことで自然な演技を出来るようにするという発想。
⇒多くの解釈の余地と論争があり、同時にこれの金科玉条的な扱いが日本の演劇界を硬直化させている一面も
→演劇における「リアル」は、「観客の頭の中で形成されるイメージのリアル」である。現実に近い(と演じる側が思っている)演技だけではそれは伝わらない。逆に伝われば内面がどうであれ関係ない、と言える。
→平田オリザ流では、演技の補助線となるものを「内面」だけでなく「外部の環境」に求める。
◯一方ドイツのブレヒトは「異化効果」による観客の覚醒を志向した。
→スタニスラフスキーのように「のめり込ませる」のでは無く、「突き放す」ことによりフィクションを相対化する。
→ブレヒトは物語と観客の同化を完全に拒むが、平田オリザ流では「人格への同化は拒むが、空間への同化を目指す」こととしている。
→数名が囲むあるテーブルにおいて、
【本書の三行まとめ】
- 世の中にはイメージの共有しやすいものと、しにくいものがある。観客が求めるのは「しにくいもの」、特に一番難しい「人間の心の中」であり、イメージを共有しやすいように観客の想像力を誘導していくことが演出家に求められる構成力である。
- 演出家・俳優・観客の三者間でコンテクストを摺り合わせて世界観を共有することが演劇表現の肝である。「観客との共有」という目標のため、根拠ある演技指導を行い「俳優と共有」することが演出家の職能となる。
- 演技指導の根拠には複数の流儀があるが、平田オリザ流ではそれを「内面」だけでなく「外部の環境」に求める。
【本書の宿題】
- さしあたり特になし
……だらだらとした短期連載になってしまった。反省。後編書くのに二日かかっちゃったし。
原点に返って『イシューからはじめよ』を読み返してます。「適切な問いを立てる」ことが、問いを解くこと自体より時には大切。
それでは
KnoN(--min)
*1:宇野常寛『リトル・ピープルの時代』では、想像力を「正義の問題系」と「ナルシシズムの問題系」に分けていたが、同じことを言っているのだろう。