現代日本のコミュニケーション研究 その4
セールの最終日には買い物に出かけよう。
引き続き
現代日本のコミュニケーション研究(日本コミュニケーション学会、2011)
の
第Ⅳ部 コミュニケーション教育
をやります。
第1章 コミュニケーション教育の源流
コミュニケーション教育を考える際、「コミュニケーションとは何か」という議論を欠かすことは出来ない。
鈴木・岡部による定義*1
=その状況における参加者によって共有されるような意味が創造されるプロセス
→人々の意思形成・意志決定・意志対立が起こるダイナミックなプロセス、として捉える。
→「道具としての言語」「背景としての文化」「動的プロセスとしてのコミュニケーション」の一体不可分な関係に留意しつつ、われわれの生活世界が以下に構築され、より良く機能で可能であるかについて検証することが、コミュニケーション学の使命である。
ジャンバッティスタ・ヴィーコの発展的歴史観は近代以降の文化研究に多大な影響を与えた。
ヴィーコは自然を「人間化・歴史化」のプロセスと捉え、「歴史は、個人の感情的な衝動からの人間活動を、言語・神話・文化を通じた解釈を通じて理解する範疇である」とした。
この「人間が歴史を作る」という視点により、「自然を自分自身の裁量で支配出来る存在としての人間」を前提としたコミュニケーション学の成立に大きく貢献している。
ピータース)は、ロックこそ「独立した個人」という概念を提唱することで、現代コミュニケーション学の源流を形作った人物であると論じる*2。
⇒近代における「地位と立場の伝統的な秩序」から自由な存在としての人=「個人」の発見が目の前の問題を解決するための「コミュニケーション」を生み出した。
→「誤解やいさかいはお互いがお互いを理解できないからではなく、われわれが同意できないために生じると考えることが出来る」
……ちょっとこのあたりテキストが言葉足らずな気がする。
近代を「市民社会が形成され、個々の構成員に権利と義務が生じた時代」として捉えた場合には、日本には「コミュニケーション教育の思想」と呼ぶべきものが欠如していることは明らかである。
日本のコミュニケーション教育が検討すべき喫緊の課題として次の3点を指摘できる。
- 日本人が公的コミュニケーションを行う「場」はどこであったのか。
→西洋のアゴラ・フォーラムにたいする議論の場。井戸端会議、小田原評定。 - コミュニケーションの道具としての言葉が、日本人の間で〈コトバ〉と記号化されて、共通の「意味」が成立しにくくなっている。
→一方通行の発信と現実に対する無力感。 - 聞き手や共感を重視する日本的コミュニケーション・スタイルへの注目
→「個の集団」と「集団の中の個」の違い。
第2章 日本におけるコミュニケーション教育の歴史
省略。
第3章 コミュニケーション学におけるコミュニケーション能力の捉え方
本章ではコミュニケーション能力について、特に異文化環境における対人コミュニーション能力の観点からその概念化を主要テーマとする。
スピッツバーグはコミュニケーション能力を次のように定義した*3。
"Competent communication is interaction that is perceived as effective in fulfilling certain rewarding objectives in a way that is also appropriate to the context in which the interaction occurs"
=(筆者訳)有能なコミュニケーションとは、あるrewarding objectives(返応の目的?)を果たすために効果的であると認識され、それが起こるコンテクストの中で適切な方法によってなされる相互作用のことである。
→「効果性」「適切性」加えて異文化に対する「適応性」が重要な指標となる。
- 効果性=目的が達成できるかどうか
- 適切性=状況にふさわしい行動が出来るかどうか
- 適応性=状況の変化に以下に柔軟に対応できるか
コミュニケーションの効果性と適切性に深く関わる要素として、スピッツバーグとキューパックは次の3領域を挙げた*4。
- 認知/知識面=必要とされるルールや解釈の枠組、行動様式や方策に関する情報
- 動機/感情面=関わろうとするか、避けようとするかに付随した不安・恐れ・嫌悪・親しみ・興味・好意などの感情
- スキル/行動面=目的を達成するための効果的かつ適切な行動
→しかしコミュニケーション能力の判断はあくまで評価する人間がどのように解釈・感じるかにかかっているということには留意しておくべき。
コミュニケーション能力を個人の資質よりも周囲の状況の中でどう受け止められるかの問題であるとする考え方もある。
この場合個人の資質(trait)と、「能力があると受け止められる」ことに寄与する資質(competence-related trait)を分けて考えることも必要になるだろう。
異文化コミュニケーション能力の捉え方には、特定文化間に限定した能力とみなすアプローチと、文化一般に適応できる能力とするアプローチがある。
- 特定文化における対人コミュニケーション能力
=異なる文化間のコミュニケーションの場において、どのような問題点が浮上する可能性が高く、どのような能力がそれを回避するために求められるかを考察する。 - 文化一般に適応できる対人コミュニーション能力
=異文化コミュニケーションは同一文化内における対人コミュニケーションの延長にあると捉えられ、文化差が意識される時は異文化コミュニケーション、その違いを個人的要素に求める時は対人コミュニケーションとする考え方。
いずれにせよ、異文化コミュニケーション能力を理論化/モデル化するためには、特定文化におけるコミュニケーション能力の構成要素/応用範囲との整合性が必要になる。
- 前者→特定文化内でのエミック(emic;文化相的な)要素を抽出した上で、複数な文化圏に共通した基本的に必要とされる構成要素を整理統合する。
- 後者→先行調査から認められたエティック(etic;自然相的な)要素を各文化の成員に適用し、修正を加える。
→ここで強制的エティック(inposed-etic)、つまり従来の研究が西欧中心に行われてきたことによる考え方の偏りが問題になってくる。
スピッツバーグとシャグノンはこれまでの異文化コミュニケーション能力に関する研究を総体的に整理し、次のような問題点を指摘した*5。
- 認知への偏重、情動面(無意識レベルでの働き)の軽視
- 相互作用の視点の欠如、「適応性」概念の不明瞭
- 個人を重要視する西欧的バイアス
→「文化」をどのように捉えるかを定めた上で、状況的要因をも考慮した研究が必要とされている。
第4章 コミュニケーション教育に関する研究の課題と手法
第5章 教育的課題とコミュニケーション教育の在り方
省略。
【今回の三行まとめ】
- 歴史的にはヴィーコ、あるいはロックなどにより「独立した主体としての個人」概念が確立されていったことから、コミュニケーションのという営みが生まれていった。日本では(西欧で言うところの)近代市民社会の形成に未熟な部分があり、それが「コミュニケーション教育の思想の欠如」に繋がっている。
- スピッツバーグらによるコミュニケーション能力の定義からは、「効果性」「適切性」「適応性」がその能力を測る指標となる。これらは「認知」「動機」「スキル」の3領域において発現する。
- 異文化コミュニケーション能力の捉え方には、特定文化間に限定した能力とみなすアプローチと、文化一般に適応できる能力とするアプローチがある。後者は異文化コミュニケーションを同一文化内での対人コミュニケーションの延長であると捉えている。
【今回の宿題】
……今回は、特に第3章がかなり自分の関心に近い内容だった。
コミュニケーションのモデル化とはつまり「コミュニケーションとはいかなる営みであるのか」を定義することであり、まさにそれについての議論を展開している。今回取り上げたスピッツバーグの論文は原本にあたる必要があるだろう。
異文化コミュニケーション能力の捉え方では、自身の考えはおそらく後者に属する。より一般的なものがあり、その応用として言語活動のみならず、モノや空間を媒介したコミュニケーションを位置づけている。
……最近、三行まとめが全然三行に収まっていないのはここだけの秘密だ。
それでは
KnoN(120min)