RePUBLIC その1
10月終わっちゃったけど、月次報告はまあいいかな……?
特に書くことがない。そのうち簡易版でやるかも。
大学生協の書籍部をブラブラしていたら、なんとなく興味を惹かれた本が多かったので3冊ほどまとめ買いをしてしまいました。
そのうちの1冊を見ていきたいとおもます。
今回からは
RePUBLIC 公共空間のリノベーション(馬場正尊、2013)
をやります。分野的には建築の本。
まずは
公共の意味を問い直すために
1 公園をリノベーション
から。
公共の意味を問い直すために
◯日本語の「公共」の概念と、英語の「public/パブリック」の概念には違いがあるように思われる。
→政治学者の斎藤純一によると、「公共」にはofficial、common、openの三つの側面がある。*1
- official=「公」による管理
- common=参加者による利害の共有
- open=空間や情報の開放性
⇒これらの違いに頓着せず、ごちゃまぜに扱っていることが日本の「公共」概念を損ねている?
⇒公園の管理問題。本来「オープンスペース」として扱うものを、「オフィシャルスペース」として扱い、やたら規制をかけたがる。
◯土地について「誰のものか(所有)」ではなく「誰のためのものか(目的)」という観点から見直すことで、公私の中間にある「コモンスペース」としての新しい公共空間のあり方が現れてくるのではないだろうか。
社会学者のアンリ・ルフェーブルは、管理する側の論理でつくられた空間のことを「抽象空間」、利用する側の論理でつくられた空間を「生きられた空間」と呼んだ。*2
→公共空間を、利用者側の論理によって絶えず更新され、最適化されながら活力を保ち続ける空間へと移行していく。
……(公共)空間は利用者をその主体として使われるべきである、これには同意する。
空間は当初想定された使われ方だけでなく、利用者によって次々と「読み替え」られ、新しい使われ方が提案されていく。利用者主体の管理がなされていれば、その「読み替え」はハード・ソフトの両面で管理者を通じてフィードバックされ、更なる「読み替え」を誘発していくだろう。これは必然的であり、不可避的なプロセスであるように思われる。
しかし「不特定多数」が利用者となる公共空間においては、個々人による「読み」が時として対立するものとして現れることがある。
例えば新宿駅南口の駅前では夜な夜なアマチュアパフォーマーたちが路上ライブを行っているが、その演奏スペースや人溜りのせいで通り抜けがしにくいことがある。
「駅前のやや幅広の道路」を「ストリートライブの会場」と読み替えているわけだが、読み替えていない人にとっては邪魔でしかない。
ここでこの道路の管理者が、利用する側の論理(=ストリートライブとして使われている現状)に従ってその使い方を固定化するようなフィードバックを行えば、道路としての"本来の"使われ方に支障が出てくるようになるだろう。
あるいは(筆者自身も気づいていない)他の「読み替え」をしている利用者は、それぞれの活動がしにくくなってしまうかもしれない。
こうなるとそこは「パフォーマーのための空間」になり、「コモンな空間」ではなくなってしまうだろう。
結局、最大公約数的な「なににでも使えそうだけど、実際には使いにくい空間」になってしまうのではないだろうか。
しかしそう考えてしまうと、「管理者(≒設計者)のできる最善のこと」は「なにもしないこと」であるという、ニヒリズム的な結論に陥ってしまうわけだが……。
1 公園をリノベーション
上述したように、「不自由な公園」問題は公共空間を考える上でもっとも象徴的なものの一つである。
どうすれば公園を本当の意味で開かれた場所にできるのか。「受益者負担」「指定管理者制度」「公開空地」をキーワードに考える
……というふうに書き進めていこうと思ったのだが、うまくまとまらないのでこの章は再考。明日に持ち越しにします。
とりあえず今日はここまで。
それでは
KnoN
*1:公共性 (思考のフロンティア)(斎藤純一、2000)
*2:空間の生産 (社会学の思想)(アンリ・ルフェーブル、2000)