「らしい」建築批判 その3
実はこの記事は先行して書いてます。
どのタイミングで公開しようかな。
引き続き
の
7 建築は芸術か?
8 誰のための建築か?
9 東日本大震災
をやります。
第三部 典型例としての伊東豊雄批判
このような時代に適応した建築家として代表的な存在が伊東豊雄である。第三部では伊東の業績を振り返りながら、「らしい」建築を具体的に批判していく。
伊東は東京大学建築学科を卒業後、1965年に菊竹清訓の事務所に入社した。東急田園都市線沿線の開発計画などに携わるが、1970年に開催予定だった大阪万博に幻滅し、「もう大阪万博の仕事には関わりたくない」という気持ちから1969年に退職、独立する。
私自身は六〇年と七〇年安保の狭間の世代なのでデモには参加しませんでしたが、学生運動への共感はありました。また社会の革新を求めていた先鋭的な建築家たちが資本主義経済に深く組み込まれている現実も肌で感じていました。
その後70年代は篠原一男の影響の元で「都市に対して閉じた住宅」を設計し、80年代ではバブルの熱気の中で「イメージのような建築」を商業建築のデザインの中で追求していった
- 1976《中野本町の家(White U)》
- 1976《上和田の家》
- 1986《横浜風の塔》
- 1987《神田Mビル》、など。
現在ではガラスとコンクリートを多用した伊東豊雄「らしさ」を武器に国際的に多くのコンペで活躍している。
- 2000《せんだいメディアテーク》
- 2009《高雄国家体育場》(台湾)
- 2011《エルメス パヴィリオン》(スイス)、などなど。
ところが2011年の東日本大震災以降、にわかに「建築の社会性」を主張し始め、実際に伊東「らしくない」《みんなの家》プロジェクトを東北の各地で行っている。建築家としての自己表現を前面に出すのではなく、実際の利用者(被災者)の希望に応じた素朴な集会場を作るのが《みんなの家》の特徴である。
しかしこれは伊東の完全な「転向」を示すものではない、と著者は指摘する。
一つには「ずっと建築の社会性について考えてきた」という本人の言とは裏腹に、《サン・クリストバル駅コンペ》*1や《岐阜大学医学部等跡地整備基本計画》などの3.11の直前に取り組んでいた案が表現を優先した伊東「らしい」ものであることがある。
震災以前から社会性について考えてきたというならば、時期の近いこれらの提案にも社会性が含まれていないと話がおかしい。
また3.11以降でも「被災地の外」では変わらず伊東「らしい」建築を提案している*2。
伊東は、東日本大震災以後、「社会性」を強く唱えつつ、その一方では、それとは相反することを平気でやっている。つまり彼は、3・11以後も、その建築の与条件によって、自分自身の方法論を、うまく使い分けている。もっと言えば、3・11後も、伊東は「被災地の外」では、3・11以前の彼の大胆な作風のままなのである。
しかし、使い手のための建築を考えるということは、建築を「被災地の中」につくろうが、「被災地の外」につくろうが、本質的には何一つ変わらないはずである。というよりも、それは変わってはいけないことである。
伊東は《みんなの家》での成果を自ら積極的に世間に対し紹介し、それを「伊東豊雄」というブランド建築家の実績の中に組み込もうとしている。「市場の中でブランドとしての名声を高める、アイコンとして機能する建築を作る」という点において、《みんなの家》も伊東の従来の「作品」の見せ方を少し変えたものに過ぎないのである。
⇒《みんなの家》は最初の仙台以外にも被災地の各地に建てられている。
特に陸前高田の《みんなの家》は第13回ヴェネチア・ビエンナーレに出品され金獅子賞まで受賞したが*3、それゆえ変に注目が集まってしまい、地域住民に充分に活用してもらうことができなかった。
それが原因かはわからないが管理人も心身のバランスを崩したらしく、また現在では土地のかさ上げ事業により解体(移転?)が決まっている。
⇒このように《みんなの家》の一連のプロジェクトは必ずしも当地の住民だけを向いたものではない。伊東豊雄は《みんなの家》という、被災地内に限定された「らしさ」を再生産していると見ることもできるだろう。
……被災地における建築家としての行為を評価し、それを世の中に正しく報告するのは、伊東とはまた別の人間が判断して行う仕事だからである。……にもかかわらず、世の中に向けて、被災地で伊東がやっている行為の意義や重要性を、建築家である伊東本人がテレビ出演などをして世の中に強く話しかけてしまうと、それを観ている人々は、建築家とは結局、被災地でさえ自分の今後の「実績」に利用する人達だと考えるものなのである。
(傍点の代わりに太字で強調)
※本文ではより若い世代の極端な例として、石上純也も批判の槍玉に挙げられている。
石上はよりアーティスティックな側面が強く、2010年には《Architecture as air: Study for château la coste》でヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展の金獅子賞(最高賞)を受賞している。
他の代表作は《神奈川工科大学KAIT工房》が挙げられる。これも細い柱をランダムに配置した抽象性の高い作品である。
⇒石上純也批判まで丁寧にやると長くなりすぎるので、ここでは軽く触れるにとどめます。
【今回の三行まとめ】
- 伊東豊雄は70年代においていち早く建築の社会性から撤退し、バブル期以後では消費社会に求められる建築をアイコン的に作ってきた建築家の代表例と言える。
- 東日本大震災以来、《みんなの家》などで社会性を説くようになったが、他のプロジェクトと照らし合わせて考えるとそれが本心からの「転向」であるとは考えにくい。
- 《みんなの家》も「建築家としてのブランドを高める」という資本主義の回路に飲み込まれてしまいつつあるように思われる。
【今回の宿題】
- 伊東豊雄の「迷い」の部分をもう少し掘り下げてみたい。
……今回は特に画像やリンクを多用してわかりやすさを目指してみました。
「伊東豊雄」という建築家のスタンスに対しては、著者は「消費社会に追従しているだけ」と手厳しい一方で「原理原則にとらわれない柔軟性がある」とする評判も聞いており、なかなか自分としての評価が定まらない。
特に「建築エコノミスト 森山のブログ」での伊東豊雄評シリーズなどを読んでいると『建築批判』とは全く別の感想を持ってしまいそうになる。
ここらへんは自分の勉強不足を反省するとして、この連載はもう一回全体のまとめをやって終わりにする予定です。
それでは
KnoN