知の編集工学 その7(終)
夕方になったら調子が出てきました。
分量的にも多くないので、時間帯こそずれましたがやっちゃいましょう。
→結局、いつもの一本分の分量に
これまで読み進めてきた
知の編集工学 (朝日文庫)(松岡正剛、2001)
について、
あとがき
を読みながら全体を復習します。
情報は関係し合おうとしている
この本のあとがきは次のような一文から始まっている。
この本は「編集工学」という方法に関する入門書となることを目指しつつ、「編集は人間の活動にひそむ最も基本的な情報技術である」という広いテーマを展開した試みになっている。
(強調は筆者)
→私たちのアタマの中で起こっている多くのこと、他の人や物とのコミュニケーションの本質そのものの中に編集的な要素が含まれている。
著者は情報の基本的な動向について、3つの見方を持っていると語る。
- 情報は生きている
→生命の本質が遺伝情報などの情報を編集すること。人間はこの情報編集のしくみに属しながら活動をしている。*1
⇒人間と(他者を含めた)外部環境との関わり方、「生きる」ということ自体が、編集的営みとして説明できる。 - 情報はひとりでいられない
→情報は常に別の情報との離合集散を起こす"縁"をもっている。
⇒一見単独で存在しているように思われる情報でも、数多くの関連情報をその内に宿している。少しでも近しい要素を持つ他の情報に対して、用意にハイバーリンクが発生する。 - 情報は途方に暮れている
→情報は自分の行方を探している"家なき子"であり、適切な誘導を待っている。
⇒二つ目の項目と補完関係にある。情報は繋がりたがっているが、適した情報と繋がれるかはハンドリングするエディターによる。
これら3つの動向を一言でいえば「情報は関係し合おうとしている」となる。
→この関係線を見出すこと、それが編集である。
→<編集工学>ではこの関係線(link)として「ナビゲーション」「類推」「編集」といった種類のものを想定している。*2
あわせて情報の特性について「乗り物と着物と持ち物による三つの変化が備わっている」とも考えている。
乗り物=情報の運ばれ方、メディア。
着物=情報の現れ方、切り口。
持ち物=情報の内容、エディトリアリティ(?)。
→情報にはその本体とは別の、運び手や意匠や比喩などがくっついている(=奇妙な付属性)。
……「持ち物」のことを<エディトリアリティ>と解釈したが、『「内容」という持ち物をとっかえひっかえぶらさげている』という表現もある。
言い換えた文では「比喩」といわれているが、ひょっとすると<エディトリアリティ>のひとつ外側のレイヤーの、もう少し具体的になった話そのものを指しているのだろうか。となると「着物=意匠」との違いが曖昧になってくる。
境界を曖昧にした先にある「現実感」
編集はいつも、誰にも、おこっている。何かを喋っているということ、そのことそれ自体が編集であり、何かを思い悩んでいること、それがすでに編集であるからだ(たとえ寝ているときにも脳の中では編集が進んでいる)。
→そのような「自分の中の編集状態」を取り出し、意識的に扱えるようにするにはどすればよいのか。
→テキストでは<自由編集状態>に至るために著者が行ったエクササイズの説明*3、そしてそれをサポートするシステムやツールの紹介を行った。
歴史の中で実践されてきた編集手法の例や、「物語」を応用した新しい手法の可能性などについても触れている。
⇒コーヒーハウスと茶の湯、ワールド・モデルの歴史、<ナラティブ・マザー>などの話。
<自由編集状態>(=自分のおもいが流れているままに、そのプロセスを同時に観察する)において重要になるのは、自分を客観視するというよりもむしろ「自他の境界を取り去る」ことだ。そしてそれは<編集>そのものの本質を導いてくれる。
⇒「直接の体験ではないのに自分のことにようにもっともらしく感じられる」現実感(<エディトリアリティ>)が、外部を取り込み、内部を差し出し、新たな「情報のかたまり」としての自己を不断に再形成していく。*4
情報と編集の海
じつはウェブの上を動くネットスケープ状態の現状のインターネットには、まだ「編集」はない。いまのところインターネットは編集以前の代物である。けれども、明日のインターネットに必要なものはまさしく「相互編集性」であること、ユーザー一人ひとりには「自己編集性」こそが求められつつあることがやっとわかってきた。
(強調は筆者)
⇒1996年当時と比べて、2014年現在ではインターネットを取り巻く環境も大きく変わっている。
情報を閲覧するだけの「ネットスケープ状態」はとうに脱し、ブログなどでこうやって簡単に情報を発信できるようになった。
TwitterやFacebookでは「リツイート」や「シェア」などによって簡単に他人が発信した情報を手元に持ってこれるようになり、NAVERまとめなどの所謂キュレーション・サービスも盛んに利用されている。
そして情報のやりとりが電子情報ベースで行われることが当たり前になったことにより、MAD動画やコラ画像などのコンテンツが(著作権などを意識することなく)広く制作、拡散するようになっている。
素材をネットの海から見繕い、技術的なハードルも低く加工する、そしてそれが拡散し、他の誰かに「拾われ」、新たな素材として更なる編集の対象となる(相互編集性)。
他人の発信した情報を受け取り、自分やまた他の人の情報と突き合わせ、自分の物として咀嚼していく(自己編集性)。
松岡正剛が予言したインターネットの時代は、(少なくとも表面的には)現実のものとなって立ち現れているようだ。
日々是編集
ところで、編集工学は「かんがえる技術」や「あらわす技術」を探求する"方法の方法"であるものの、私自身はたんに研究開発をするだけが編集だとは思っていない。自分の日々の中で編集的世界観を琢磨することこそが編集の真骨頂だと思っている。
(強調は筆者)
「編集的世界観」とはその6(後編)で扱ったようなことだ。
「自らが含まれる情報の広大な背景について考えること」「自分が属する世界について考えること」そして「それらをいかにして説明し記述するか考えること」である。
これは我々が失ってしまったという「問い方と答え方のモデル」を取り戻すことに繋がる。
【今回の三行まとめ】
- 情報は関係し合おうとしており、適切な関係に情報を導くことが編集工学の使命。
- 編集することにより、分化・分断されてしまったいろいろなものを再び一体のものに結びつけることができる。
- パソコンやインターネットなどの電子技術は編集を加速させる大きな可能性を秘めている。
【今回の宿題】
- 情報の「乗り物・着物・持ち物」の解釈
……4月16日以来、2週間以上に渡り取り組んできた『知の編集工学』もこれにて完結です。
総エントリーは15本、もう少し早くゴールデンウィーク前には終わらせる見込みだったのですが、予想以上に手応えがある内容で時間も手間もかかってしまいました。
初出は1996年と20年近く前に書かれたテキストにも関わらず、現在の状況を正確に見通しているような記述も見られて感心するばかりです。その分、「未来」に生きる身として現状を分析するという楽しみもありました。
また「"考える"ということを考える」といえる分野であるため、常にメタ的な状況になっていたことも面白かったです。
毎回の記事は、学んだ他者(松岡正剛)の考え方に自分の解釈を加えて、さらに第三者に見せる(説明する)ためにまとめるという、まさに<編集>の行いそのものであり、また記事自体の中でも過去の記事や他の知識(Wikipediaなど)へのハイパーリンクを張り巡らし、情報に重層性を持たせるということの実践例となっています。
(今回は「全体のまとめ」ということで、特に以前の記事へのリンクを多くしています)
「キミの考えていることに近い気がする」と進められて学び始めた<編集工学>の考え方。確かに共通する部分が多く、非常にいい「学び」になりました。
しかし100%一致する訳ではもちろんなく、それが「私自身の編集の余地」「相互編集の可能性」なのかなと思います。まだまだ、やることもやれることもたくさんある。
面白い、ワクワクするテーマではありましたが、内容がハードでいささか疲れました。
次はすでに何度も読んだ『ストーリーメーカー』をテキストとして読み、それからどう進むかは考えたいと思います。
それでは
KnoN(100min)