ロラン・バルト(シリーズ現代思想ガイドブック) その2
大学では今日明日と学園祭をやっています。
サークルの方も半引退状態なんでほとんど関わってませんが、どうしようかな、様子ぐらいは見に行ってみようかな。
明日は用事があるので行くなら今日の午後しか無いけど……。
引き続き
ロラン・バルト (シリーズ 現代思想ガイドブック)(グレアム・アレン、2006)
の
第二章 批評的距離
をやります。
- 作者: グレアムアレン,Graham Allen,原宏之
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2006/04
- メディア: 単行本
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第二章 批評的距離
この章では継続してバルトの初期の仕事を見ていく。
『ゼロ度のエクリチュール』で提示した諸概念を現代の小説と演劇の領域に適用し、19世紀フランスの歴史家ジュール・ミシュレについて論じた内容から、批評的かつ歴史的な距離の必要の一般的強調を検証することができる。
歴史を記述する文学
前回の議論の中で、どんなに自由で先鋭的なエクリチュール(形式)であっても、いずれは「文学」の重力に引きずり込まれて馴化されてしまう、とわかった。
→批評家はアンガジュ(参加)しようとするときに、一つの様式に拘泥するのではなく、すべてのあり得る様式を採択できるような自由を確保しておかなければならない。
ここでバルトは、ミシュレを歴史家としてではなく作家として読むことによって、「歴史を自らのエクリチュールの進行中の「テーマ系」に吸収してしまうやり方」を読み取ることができるとする。
→ミシュレのエクリチュールと、歴史やエクリチュールそのものに関する現代の視点との間の「距離」をはっきりと認識する必要がある。
⇒この距離感は重要である。これまで歴史は(記述する歴史家の主観から離れた)客観的なエクリチュールで描かれてきたと考えられていたが、ミシュレはむしろ「特定のテーマ」による切り口を強調して描くことで、自らの価値基準を歴史記述の中に織り込んでしまっていることを暴露した。
(と、いうこと言いたいんだと思う。多分)
ただしバルトの試みは、ミシュレのような作家の距離感をただ誉め称えるより遥か遠くまで行く。ミシュレのような作家の距離感を認識することによってのみ、わたしたちは現代の歴史理論と歴史実践にとってのミシュレの関与妥当性の判断に着手できるのだ。……歴史の客観性への批判は構造主義やポスト構造主義、またニュー・ヒストリシズムのような他の最近の理論運動の主要な特徴の一つであった。
同様の「距離取り」のプロセスは、17世紀のフランス古典主義劇作家ジャン・ラシーヌについての個別研究にも現れている。
ラシーヌは(英文学におけるシェイクスピアのように)仏文学における悲劇の伝統であると認識されているが、ここにブルジョワ階級による解釈の欺瞞を見ている。
→ラシーヌの悲劇を「普遍的な妥当性と重要性を持つもの」として持ち上げることは、ブルジョワ文化が自身の価値と欲望を間接的に正当化させることを意味する。
→ラシーヌを扱うには、それを「自分たちに連なるテーマ系の一部」として牽強付会にどうかするのではなく、突き放して「距離」を保ち続けなければならない。
当然のことながらラシーヌ神話は本質的に防御機構である。ラシーヌを飼い馴らして、彼から悲劇的な部分を除去して、われわれ自身にどうかさせること、ラシーヌとともに古典芸術の優雅なサロンでわれわれ自身を見出すことを求める。……ブルジョワ演劇のテーマ系に永遠のステータスを与えようとするのだ。
(『ラシーヌについて』)
「重力」への抵抗
バルトはこのような事例の研究を通じて同時代的な文芸潮流(よりラディカル・前衛的になっていた)を批評する手がかりを得る。特にドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒトとヌーヴォー・ロマンの代表的小説家アラン・ロブ=グリエの作品にその関心は向いていた。
ブレヒト演劇の特徴は、「心理学」への抵抗、観客に登場人物への安易な感情移入・同化を許さないという点にある。
→史実を題材として観客に「現実自体ではなく現実の表象を見ている」と自覚させるスタイルを確立し、観客と役者の間に「距離」を生み出した。
→観客に登場人物への感情移入を求め一体化を通じて感情を揺さぶるのではなく(劇的演劇)、登場人物の振る舞いを批判的に判断することで事件の本質に迫らせようとする(叙事的演劇)。
代表作である『肝っ玉おっ母とその子どもたち』では三十年戦争に巻き込まれた一家の母が家族に降り掛かる戦災を「自然」として受け入れながらも乗り越えていく様を描いたものである。
ここで観客はおっ母の悲しみや困難に共感する代わりに、戦争を仕方ないと受け入れ加担してもいるおっ母の「盲目」さを認識することを求められる。
→観客を登場人物から突き放し、距離をおくことによって感情移入や一体化以上のことをなすようにと呼びかけている。*1
またロブ=グリエの小説においては、登場人物に関する描写以上に視覚情報によって得られるもの(仕草やオブジェなど)を事細かに描写し、しかもその描写から一般的象徴や暗喩的なテーマを読み取ることを拒否している。
……たとえば『嫉妬』(一九五七)では、語りの声が名前を示されることもなくニュートラルな観察者のように淡々と行動し、わずかな表象される登場人物たちはもはや小説の舞台である家(熱帯のバナナ農場)の描写よりも重要でないかのような世界が提示されている。潰れたムカデの残骸の骨の折れる職人的な描写ななどが重要視される。そこから生まれる効果は、もはや視覚(「光学的」)レベルでしか読み得ないような小説の提示である。
→ロブ=グリエの小説は、ブルジョワ文学が自らの「文法」(さまざまな描写に意味を読み取る)で解読することに抵抗し、代わりにオブジェの世界の無意味性を提供する。
このロブ=グリエの純粋小説は「オブジェの無意味性がブルジョワ文学の囲い込みから自由な小説のエクリチュールを創造する」新たな試みを表象している。
→しかしすでに述べてきたように、この手のエクリチュールは「前衛運動」と位置づけられることによってすでにブルジョワ文化の中に取り込まれてしまっている。
問いを立てるものとしてのエクリチュール
ここまでの議論で得られる結論は前回と同様のものである。作者のエクリチュールは「文学」のブラックホールのごとき重力から逃れられない。
しかし『ゼロ度のエクリチュール』での議論との関係で整理するならば、これらのラディカルなエクリチュールは、答えを得るものではなくむしろ問いを立てるものとして位置づけることができる。
……バルトにとってのエクリチュールがラディカルなのは、それが自らを説明し正当化するように見える答えをあたえるときではなくて、むしろそれが世界を問うときである。
バルトに取って芸術がラディカルであるのは、ブレヒト劇のように、芸術が数々の問いを通して、ブルジョワ文化が真で自然なものとしてわたしたちに受け容れさせようとしている諸々の意味を暴露するときである。
(改行、強調は筆者)
⇒ブルジョワ「文学」による同化を振り払い、あえて「距離」をおくことによって、「文学」が信じ込ませようとしていることの欺瞞に注意を向けることができるようになる。
【今回の三行一行まとめ】
【今回の宿題】
……よくわからなくて何度も読み返したが、結論としては一行でまとまってしまった。記事の分量もそんなに多くないし。
基本的には第一章のおさらい、あるいはその拡張でした。たぶん、自分がほとんどしらない具体的な作品を取り上げているのが分かりにくさに繋がったんじゃないかと。
次からはいよいよ記号論の話です。たぶん2回に分けることになると思います。
それでは
KnoN(120min)
*1:宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』の中で論じた「安全な痛み」(あるいは自己反省パフォーマンス)を連想した。
これは美少女ゲームなどで「弱者としての少女を主人公の男性が所有することでマチズモを補充する」構造を多く採用していることへの批判、さらにいえば「そのようなことを自己反省することでプレイヤーがマチズモを批判する」という主張への批判である。
「自己反省の回路が予め組み込まれていることで作品に強度を与える」との主張に対し、宇野は「それは反省するふり(パフォーマンス)にすぎない」と否定している。「男性が少女を所有する」という構造自体を温存している限り、それは反省となりえないということである。
ブレヒトの演劇では同様に「登場人物の行動を批判的にみる」ことが求められている。この二つの間の違いはどこにあるのだろうか。