KnoNの学び部屋

大学に8年在籍した後無事に就職した会社員が何かやるところ。

ロラン・バルト(シリーズ現代思想ガイドブック) その7(前編)

暑いです。真夏日らしいです。

春から夏になるのはあっという間ですね。

 

引き続き

ロラン・バルト (シリーズ 現代思想ガイドブック)(グレアム・アレン、2006)

第七章 中性のエクリチュール

をやります。

 

ロラン・バルト (シリーズ 現代思想ガイドブック)

ロラン・バルト (シリーズ 現代思想ガイドブック)

 

 

第七章 中性のエクリチュール

彼自身によるロラン・バルト

 『彼自身による ロラン・バルト』は、バルトによるテクストを書くことの実践に関する理論的アプローチの一部であるといえる。

 バルト自身はこの本について「わたし自身の思想に対するわたしの抵抗の本」であると述べている。従来の「わたし自身の思想」(=二項対立に基づく一種の弁証法)を批判的に見直すことで、新しい段階へ進むことを目指している。

→ドクサ(一般的な意見)/パラドクサ(逆説)の二項対立

 

ドクサ=大衆文化のなかで受け入れられているもの。ブルジョワ・イデオロギー

パラドクサ=それに抵抗するもの

 

⇒「ドクサ」はこれまで何度も説明してきたような「特定のイデオロギーに依拠しているにも関わらず、自然さを装う」ものである。

 バルトはそれに対し常に抵抗してきたが、同時にその抵抗には賞味期限があり、やがて「重力」に引き込まれて「ドクサ」の側に取り込まれてしまうのである。

 その度にバルトは新たな形の「パラドクサ」を提出することで「ドクサ」への批判をやめなかった。

 

 彼の思考や活動における再帰的なこうしたパターンを認識することは、必然的にバルトを「ドクサ/パラドクサ」の対立自体の疑問視へと駆り立て、この「ドクサ/パラドクサ」という二項対立を「翻訳する」(位置変更する)ような「第三項」を探すようにと向かわせるだろう。

(強調は筆者)

 

 この「第三項」とは何であるのか。バルト後年の仕事にはその多くの候補が見出せる。

→身体、快楽、中性など

 

 このなかでとりわけ重要なのが「中性」である。

 バルトは「中性」について、ドクサとパラドクサの間の軋轢を解消する「第三項」ではなく、暴力(闘争、勝利、演劇性、横柄さ)を第一項とする新たな範列(パラダイム)の「第二項」である、としている。

 

……ここ、こんがらがっている気がする。

 「ドクサ/パラドクサを翻訳する第三項」の候補として中性をあげておきながら、すぐあとに「軋轢を解消する第三項ではなく」といってしまっている。

 「翻訳する第三項」であると同時に、それは「別の次元のパラダイムの第二項」である、とするならわかるんだが。

 

 

作家の抱え込む矛盾

 暴力と中性の間の対立は、言語活動と権力の関係について1970年代にバルトが刷新した分析に関わっている。

→言語活動は「(支配)体制内的」なものと「(支配)体制外的」なものに分裂している。

体制内的言語=権力の言語活動。自己自身をドクサとして押し付ける言語活動。

体制外的言語=権力の外にある言語活動。

 

 この二つの言語の対立は、書く様式についてのもうひとつの重要な対立に関係がある。 

エクリヴァンス=意思伝達のために書く行為。要約可能。エクリチュールではないもの。

エクリチュール=言語がそれ自体のために使われている言語活動。要約不可。

 

⇒エクリヴァンスは、伝えたい「内容」が先立つ言語活動。内容が伝われば良いので、それをどのように表現しようが、長かろうが短かろうが問題はない。学術論文的な(冒頭に必ず要約がある)。

 たいしてエクリチュールはその文章・表現自体が活動の目的(の一部?)である。小説をあらすじで読んだとして、話の展開はわかるがその文章の巧みさ・美しさは伝わらない。「この文体を読む/書く」ことが重要。そして究極的にはそれが「読者にどう受け取られても構わない」。

 

 内容を重んじるエクリヴァンスは「断言的なもの、単一で安定的な運搬のために透明」な媒体である。これは作者の思想(イデオロギー)の代弁者として機能する言語(=体制内的な言語)ということが出来る。

 その裏返しとしてのエクリチュールは、体制外的な言語といえる。

 

 この対立が暴力/中性の対立についての理解をどのように助けるのか。バルトは作家に共通のある体験について言及している。

 その一日の執筆を振り返り、「自分の生み出しているディスクールが二重仕掛けになっているように感じられてならない。つまりそのディスクールの様態が目標を越えてしまう、とでもいうような感覚ーーなぜなら彼のディスクールの目標は真理ではないのに、ディスクールは断定的になってしまう」が引き起こす「一種の恐怖」のことである。

(体制外的な)エクリチュールを制作する意図を持ちながら、その中に断定的で決定的な体制内的エクリヴァンスを含んでしまっていることに気づいてしまう。

→「書く行為(エクリチュール)」を続けるために、断定的なのは自分自身ではなく言葉遣いだと考えることにした。

 

 ある言葉遣いは、話し手としての自分がそれを中和しようとする努力を無力化ししまうような強い断定性を備えている。作者自身の意図とは離れたところで、あたかも真実を語っているような現れ方をすることがある。

→中性に対置される「暴力」とは、このような言語に内因的な暴力のことである。

 

 

イデオロギーを中和する「中性」

 社会は一般的に、すべてのものごとに名前を与えたがる。しかしこの「命名」こそが、他者性や差異を生み出す源であり、「断言という暴力」を生成する。

(と語るこのような口ぶりも暴力性をもったディスクール、ということなのだろう)

→このようなプロセスに対し、バルトは中性のエクリチュール=イメージの裏をかく、言語や語彙をあえてずらして使用する(歪曲する)、などといった戦略を立てる。

 

 ここで筆者は「中性的エクリチュールの概念と社会的な名前やイメージを歪曲することとの間にバルトが身を置くことには、両者の緊張状態があるように思われる」と感じる人もいるかもしれない、と指摘する。

 しかしこの「見かけの緊張関係」を解くことは、バルト後期のエクリチュールの核心部分へ私たちを誘うことにになるのである。

 

 ここでの「暴力」は、言語のイデオロギー的な性質(体制内言語性)に関わっている。1970年代からのバルトにとってイデオロギーとは、「名前」あるいは「命名」というシニフィアンに安定的なシニフィエを付与する行為と翻訳できるプロセスに依拠するあらゆる言語活動のことである。

→「中性のエクリチュールとは、軋轢を超越しているのではなくて、軋轢の中でイデオロギー的言語つまりドクサに対抗して奮闘する」

 

イデオロギーとは断定、つまり任意のシニフィアンに対する恣意的なシニフィエの結びつけの固定化である。それは「特定のイデオロギーに依拠しているにも関わらず、自然さを装う」ものであり、同時に受け手にとってその恣意的な結びつけを受け入れることを迫る。

 そこには保守的なブルジョワ・イデオロギーも革新的な左翼イデオロギーも関係ない。「考えを押し付けること」自体が暴力なのであり、中性のエクリチュールは左右からの「考えの押し付け」の間でその考えの土台自体を揺さぶろうと抵抗している。

 前回までに説明した「間テクスト性」のように、受け手自身がエクリチュールから意味を生成する営みがこの「考えの押し付け」という暴力に対抗し得る。

 

……ブルジョワ、プチブルの文化は、好戦的左翼やマルクス主義のディスクールと、主題をエンドクサの言語活動の形態で整理整頓する点を共有している。どちらもテクスト性、エクリチュール、つまりステレオタイプから解放されたエクリチュールの中で、あるいはそれらを通じて自由を探し求める主体を閉じ込める、凝固した言語活動なのである。

(強調は筆者)

 

 最後に「バルトが乗り越えようとしてた二項対立」の図式を整理しておく。

 

f:id:arcadia_1159:20140530131353p:plain

図:暴力/中性の対立

 

……んー、あんまり良い図じゃない気がする。

 

 

【今回の三行まとめ】

  • バルトはこれまでドクサ/パラドクサという対立の中で、常にパラドクサをアップデートすることでドクサ(一般的な意見)を批判の対象としてきた。
  • この構図を更新するための第三項として「中性」の概念を取り入れたが、それ自体が言語活動における「暴力」に対置されるものである。
  • この「暴力」はイデオロギーに基づき特定の解釈を読み手に強制する断定を指しており、受け手の自由度を確保することが「中性のエクリチュール」だと考えられる。

【今回の宿題】

  • 「第三項」としての中性の妥当性

 

 

……リハビリをかねて短めに区切ることにしました。おそらく第七章は三分割になりそうです。

 今回はいつにも増してブーメランというか、今まさにやっていること、書いているやり方を指摘する内容だったのでなんともむず痒い感じでした。

 最近、ちょくちょく図を入れてみるのが楽しいです。慣れてないので時間かかるのが難点ですが。

 

それでは

 

KnoN(120min)

 

彼自身による ロラン・バルト

彼自身による ロラン・バルト