KnoNの学び部屋

大学に8年在籍した後無事に就職した会社員が何かやるところ。

ロラン・バルト(シリーズ現代思想ガイドブック) その7(中編)

今日は大学院の入試説明会に行ってきました。

 

引き続き

ロラン・バルト (シリーズ 現代思想ガイドブック)(グレアム・アレン、2006)

第七章 中性のエクリチュール

の中編をやります。

 

ロラン・バルト (シリーズ 現代思想ガイドブック)

ロラン・バルト (シリーズ 現代思想ガイドブック)

 

 

 身体と愛による抵抗

 バルトの後期の仕事は、大衆文化の正統性にたいする抵抗によって活気づけられている。しかし、より重要なのは、正統的な左翼やマルクス主義の性向にも抗って書かれている点である。そこには、バルトが「侵犯の侵犯」と命名したものが示されている。

 

 バルトが言うところによれば、「侵犯の侵犯」とは、作者が自らの理論的ディスクールのなかに許してしまうかすかな感傷、あるいは愛である。

 

……???ここはわからない。ひとつ目の「侵犯」が何かわからないから、底にたいする「侵犯の侵犯」がどういう状況を指しているのかもわからない。それを感傷・愛と表現することが妥当なのかなんて言わずもがな。

 

 バルトは中性のエクリチュールを、頻繁に身体に由来するエクリチュールに関連させている。これは書く主体の「身体」が、ブルジョワ文化・マルクス主義の双方に取ってスキャンダラスな(避けられている)ものであるからだ。

→ブルジョワ文化(保守)にとってはその逸脱と倒錯の観念ゆえ、マルクス主義(革新)にとっては快楽に通ずる個人的なものの禁止ゆえ。

 

 「テーマとしての快楽は、テクスト理論に衝撃を与えて潜在的な凝固の外に出し、この理論を以前にその視線から除外したような領域に再び差し向けることを意味している」

⇒潜在的な凝固=記号の解釈の(恣意的な)固定化、その視線から除外したような領域=非中心的な体系?

 

快楽が中心を取り払う

 バルトはテクスト理論が「中心のある体系」とならないようにと考えていた。

 「中心」とは超越論的シニフィエ、意味の連鎖の絶対的な参照点であり、記号の解釈をあるイデオロギーの元に固定化する働きを生んでしまう。*1

→快楽主義は、真実というモラルにテクストが回帰することを妨げることが出来る。

⇒真実の追究を放棄することによって、テクスト理論は流動性を維持できる?

 

快楽主義(hedonism)

=快楽それ自体を自己目的として追求すること。ここでの快楽は、個人性・反社会性を内包した反倫理的なものとみなされ、タブー視されてきた。

 

 快楽主義はバルトに取って、古典的文学と前衛的テクストとの選択を迫られる緊張関係の解消にも繋がっている。

→もとよりバルトにとってテクストは、文学テクスト自体の性質についてと同じだけのアプローチを持つので、どちらが良い/悪いというレベルの問題ではない。

⇒快楽を第一におくことにより、古典(保守)も前衛(革新)も、等しく外側から見たものそして評価できる。

 

……快楽とは、バルトによる快楽主義の操作の中では、社会的ディスクールの保守と左翼の両方の側の確実性に抵抗するものである。快楽は、思想理論による社会と社会変革への闘争的なアンガジュマンの外にあるが、また快楽は、保守的な講壇批評が強調する過去における偉大な作品の美や受動的な賞嘆といった諸価値とは別のなにかでもある。

 →快楽とは中立・中性なものである。

 

 快楽は確立されたディスクール(保守的言説、革新的言説の双方)の期待を否認するものであるから、アトピック(どこにもない)なものなのである。*2

 

 

快楽と享楽、その両取り

 ここでバルトの用語の中で、快楽と享楽の使い分けについてはっきりさせておかなければならない。この区別は知識人としてのバルトの矛盾する立場を要約している。

 

快楽

=読者が共有された社会的価値に結びつけられたことによって感じる喜び。肯定的なものにたいする充実した感情

→満足させ、充実させ、快感を与えるもの。 

 

享楽

=読者の従来の価値観(歴史的・文化的・心理的土台、つまり趣味・価値・記憶の一貫性)を揺るがし、喪失の中で感じられる恍惚

→読者と言語活動との感覚を危機に陥れるもの。

 

……小説に例えて説明するならば「(読者の)予想は裏切っても期待は裏切るな」という格言に対し、

   予想を裏切られたことで感じる快感=享楽、

   期待を裏切られなかった(望ましい結果が得られた)ことで感じる快感=快楽

ということだろう。

 

 上記の説明を読めばわかる通り、快楽と享楽は基本的に逆の出来事による快感を指している。そして読者(あるいはバルト)は、その2つを同時に追い求めるがために「二重に引き裂かれ、二重に倒錯した主体」となるのである。*3

 

 「読者にとっての享楽の瞬間は、ドクサやステレオタイプを再生産しないエクリチュールに対峙したときに生じる」

→享楽は個人の主体性が「常識」を打ち壊したときに生じるものである。社会が人間に「道徳的統一」を要求してきたときに、それを克服・分裂するものとして享楽がある。

→この享楽のテクストは、「ゼロ度のエクリチュール」のアイデアの再提出であるとも言える。享楽のテキストがそれとして存在するのは、それが読まれる現在の瞬間においてのみである。

 

 バルトは『彼自身によるロラン・バルト』の中で、「わたし」「彼」「RB」というような複数の代名詞を使い分けている。

 これはテクストの背後にひそむ作者性、非言語的な現前性の記号であるのではなく、ローマン・ヤーコブソンが言うところの「シフター」として作用している。

→「わたし」「彼」のような代名詞は、実際には固有名詞(ロラン・バルトその人)のことを指していても、その指向対象は文脈によって左右される*4

固定的な原点がない(脱中心化された)代名詞主体は、その場その場で意味生成を創出し、その参照先を"シフト"させる

 

 そしてこの「読者による意味生成」は、読者と作者の境界の消失に繋がる。

バルトにとって、享楽とは、言語活動における安定した主体性の喪失を含意している。主体としての読者と対象としての作者がテクスト性の領域の中で溶け合う瞬間を意味しているのである。 

(強調は筆者)

⇒<エディトリアリティ>の感覚?

 

 

【今回の三行まとめ】

  • バルトは身体・快楽についてのエクリチュールを、左右の思想からともに離れた中性のエクリチュールとして関連させている。
  • 快楽は個人に依拠したものであり、絶対的な参照点としての「真実」を要求しない。脱中心化されたテクスト理論はイデオロギーの縛りから離れて自由に漂い続けることが出来る。
  • 快楽は充実、享楽は喪失による快感である。相反する快感を同時に取り込むことにより、人間主体の伝統的概念を脱構築することが出来る。

 

【今回の宿題】

  • 「侵犯の侵犯」とは

 

……今回も消化不良。部分部分では言っていることはわかるんだけれど、それが統合されてこない。快楽/享楽の話も、シフターの話も、すでに言ったことの言い換えとしか思えず、なぜこんな話をしなければならないのか見えてこない。

 自分の中でうまく再構成できてないから記事にする時もやりにくく感じてしまうんだろうなー。ここしばらく書いててあまり楽しくないし。

 最後まで読み切ったあとぐらいには、もうすこしすっきりとした気分になっていたい。

 

それでは

 

KnoN(--min)

 

テクストの快楽

テクストの快楽

 

 

*1:参照 ロラン・バルト(シリーズ現代思想ガイドブック) その5 - KnoNの学び部屋

*2:トピックという語は「共通の場」を意味するトポスに関連している。

したがってトピックなものとは特定のディスクール(言説)の中で、共通・前提として扱われている要素であり、アトピックとはその反対である。

*3:快楽=既存の価値観の評価→古典、享楽=既存の価値観の破壊→前衛、という二項対立が成立するように見えるが、古典の中にも享楽が、前衛の中にも快楽が存在するとして、気をつけなければならないと注意喚起されている。

*4:作家としてのバルト、知識人としてのバルト、構造主義者としてのバルト、ポスト構造主義としてのバルト……ということだろうか?