ロラン・バルト(シリーズ現代思想ガイドブック) その7(後編)
明日提出のレポートがあることを見て見ぬ振りしながら。
引き続き
ロラン・バルト (シリーズ 現代思想ガイドブック)(グレアム・アレン、2006)
の
第七章 中性のエクリチュール
の後編をやります。
- 作者: グレアムアレン,Graham Allen,原宏之
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2006/04
- メディア: 単行本
- 購入: 2人 クリック: 4回
- この商品を含むブログ (11件) を見る
ロマネスクなエクリチュール
後期のバルトは伝統的な小説のジャンルと、彼が「ロマネスク(=小説風のもの)」と呼んだエクリチュールの形式をはっきりと区別し始めている。
自身の文章については「わたしの書きものはすでにロマネスクに満ちている」とバルトは述べている。
バルトが自身のこれまでを総括するために書いた『彼自身による ロラン・バルト』についても、「小説ではあるかもしれないが、自伝ではない」としている。
それ〔『彼自身によるロラン・バルト』〕は小説であるかもしれませんが、自伝ではありません。経由する道が違うのです。このテクストは思想的なロマネスクを含みます。ふたつの理由からロマネスクといえます。
まず、断章の多くが人生のロマネスクな表面に関心を寄せています。また第二に、これらの断章として演出されているものは、一種の想像界という小説のディスクールそのものであるからです。……
(改行、強調は筆者)
……「伝統的な小説」が保守的な言説、従来の価値観に接続する喜びを与えるものだとしたら、ロマネスクなエクリチュールとは「世間がどういおうが俺は自分の信じる道を行くぜ!」みたいなものだろうか。「一種の想像界という小説のディスクール」の意味もわからない。
もしこうしたコンセプトに段階というものがあるならば、『恋愛のディスクール』はバルトの作品中もっともロマネスクなものということになるだろう。
これはアルファベット順に並べられてたおよそ80の文彩(フィギュール)から構成されている。これらの文彩をもとにした断章が、恋する主体の心の中に「コードの印刷」のように生じてくる。こうした文彩は、恋愛のディスクールにとって間テクスト的な要素なのである。
(フィギュール;figure)
→「恋する主体」は必要に応じその「文彩の備蓄庫」から要素を取り出し、意味生成することで自らの感情を表現する。
ここには「恋する主体の根底的なアイロニー」が示されているという。
→「最も私的な情緒」のはずである恋愛が、ひとつの事典のような汎用的で非人称的なものからの参照の組み合わせという形で経験されているから。
→ここには「想像界」という考え方の精神分析的な背景が含まれている。
存在しない相手を求める
「想像界」はジャック・ラカンの精神分析に登場する概念である。人間の発達に置ける「鏡像段階」と関連している。
=誰でもなんとなくイメージできるが、それを具体的に描写することが難しいような対象による世界。
=幼児の発達の中で、他者(=鏡に映る自己のイメージ、さらにいえば母親)を参照することによって、自己の身体を統一する意識を組み立てていく段階。外部の他者からイメージを先行して獲得し、それを元に自己を個として統合・確立させる。
→他者を参照することによって、自己の統一に関する「想像界」が形成され、そこからイメージを引き出すことで、自己の統一を成し遂げる。
バルトは恋する主体の「想像界」を文彩(フィギュール)の羅列という形で紹介し、それがひとつのテクスト(=文学、心理学、哲学、宗教、音楽、私的経験の間テクスト的な痕跡の織り物)であることを示している。
→バルトは恋愛のディスクールが「(言語活動の対象となりえないとして)見捨てられた」ディスクールだからこそ注目に値するとする。
だがなぜバルトは恋愛のディスクールを「肯定」しようとするテクストを書いたのか。
→バルトにおいて恋愛とは喪失として経験される。恋愛とは「恋愛のディスクール」に示されたような記号のやりとりであり、恋する主体は自己の中のフィクション(想像界?)を共有してくれる相手を探し求めている。
しかしそれは個人に依拠するフィクションなのであり、存在しえない。必然として主体を失望・喪失に導くことになる。
わたしは苦痛が幻想でないことを自分自身に証明すべく、自分を泣かせているのである。涙は記号であって表現ではない。涙によってわたしは、ひとつの物語を語り、悲しみの神話を生み出しているのだ。そして満足する。いまやわたしはそれとともに生きることができる。なぜならば、涙を流すことで、わたしは自分自身にわたしの発話ではなく、わたしの肉体の「もっとも真実の」メッセージを受け取ってくれる、強力な対話者を与えることになるのだ。
(バルト『恋愛のディスクール』)
『恋愛のディスクール』には架空の人物が登場する。この人物は別のフィクション(自身の望む想像界)に生きたいと願いながら、ひとつのロマネスクなフィクションなかに生きている。
→このようなテクストはバルトによる恋愛のディスクールは幻想的で神話的な性質を持つものだと暴露している。一方で、登場人物を肯定し、脱神話化の暴力を回避しようとする。
『恋愛のディスクール』は、バルトの中性のエクリチュール、およびそのようなエクリチュールが内包する矛盾の具現化である。恋愛のディスクールを価値低下させる闘争的な言語活動と、それを感傷的かつ自然らしいものにする保守的な言語活動との間に宙づりにされたこのテクストは、読者に困惑させるものの愉快でもある鏡を提供するのである。
(強調は筆者)
【今回の三行まとめ】
- バルトは伝統的な小説とロマネスクなエクリチュールを区別し始める。後者の最たるものとして『恋愛のディスクール』が挙げられる。
- バルトの定義する恋愛とは、ラカンの鏡像段階に似て、外部からの影響で組み上げられた「恋愛のディスクール」からそれぞれ意味生成される経験である。
- 恋愛のディスクールは神話的な性質を持つが、そのような登場人物(例愛の主体)を肯定することで脱神話化の暴力を回避する。
【今回の宿題】
- 「伝統的な小説」とはなにか
- なぜ「恋愛のディスクール」が脱神話化の暴力の回避に繋がるのか
……相変わらずつかみ所のない感じ。
話が自分と馴染みのない(<エディトリアリティ>が共有されない)領域に来ているので、ダイジェストだけよんでもさっぱりわからない。バルトの原著に目を通してから読み返せば、多少は理解できるのだろうか。
(そしたら概説書の意味がない気もするけど)
5月中には終わりませんでしたが、残りもあと少しです。
それでは
KnoN(100min)