現代日本のコミュニケーション研究 その5
もうすぐ九月も終わりですね。
昨日は靴を買いにいったのですが、気に入ったモデルにサイズがなかったので出直すことにしました。
代わりにこれから重宝しそうなカーディガンを一枚入手。
引き続き
現代日本のコミュニケーション研究(日本コミュニケーション学会、2011)
の
第Ⅴ部 レトリック
をやります。
第1章 レトリック研究の源流
米国のコミュニケーション学の源流は、古代ギリシアにおけるレトリック実践・研究にある。1910年代に英語学科から独立したスピーチ教師が、レトリック理論・批評を基軸としたスピーチ研究を確立していき、1940年代後半に社会科学的手法を用いた研究に注目が集まるまで、コミュニケーション学の中核を占めてきた。
本章では現代のコミュニケーション学における古典的レトリック研究のあり方を、主に4つの理論的志向性を抜き出してマッピングする。
……章立てを見るに5つの項目があるのだが、「4つの理論的方向性」?
◯ソフィストの時代
直接民主制であるポリス社会、とくにアテナイ(アテネ)において、裁判や民会に臨む市民は自らの弁舌でその正当性("真実らしさ")を訴える必要があった。そのなかでその技術や知識を教えるソフィストという職業が成立してくる。
「ソフィスト的レトリック」の特徴には次のようなものがある。
- 競争の文化と、そこから生まれる通説への挑戦
→通説に異議を唱えることで"真実"と"真実らしさ"の区分を流動化する。 - レトリックを「肉体のアート」とする考え方
→言語が人間の本能・生理・感情にもたらす作用への着目と身体的な振る舞い方。 - 発言の「時機(カイロス)」の重視(=即興演説)
→全ての事柄で両論あるという立場から、その時々にあった発言の仕方をする。
◯プラトン
プラトンはソフィストを「物事の善悪と言葉の使い方の良し悪しは関係ない」として批判していた。
→プラトンに取って、レトリックは知識を正しく伝える際の副次的な補完物に過ぎず、知識自体は言葉とは無関係である、と考えていた。
="真実"と"真実らしさ"の峻別
◯イソクラテス
イソクラテスは「素質に恵まれた者が修練と経験を積むことで初めてレトリックを社会のために使えるようになる」と主張していた。レトリックを誰でも習得可能だとするソフィストとこの点で対立している。
同時にソフィストの即興演説を否定し、「よく思考することがよく語ることに先立つ」とした。
→場所や時間の制約からレトリックを解放し、ポリス全体を益するための「政治的言説」と再定義した。
プラトンの厳密知(エピステーメ)に対し実践知(フロネーシス)を重視し、レトリックとしての哲学を展開した。
アリストテレスはレトリックを学問分野として体系化した。レトリックを説得の技術ではなく、「どんな問題でもそのそれぞれについて可能な説得の方法を見つけ出す能力」と定義する。
また話し手の信頼性に基づく説得(エトス)や聞き手の感情に訴える説得(パトス)が大きな力を持つことは認めているが、それはあくまで言論に基づく説得(ロゴス)の補完として用いられるべきだと主張している。
◯キケロ
「雄弁の父」とも称される古代ローマのキケロは、古代ギリシアのレトリックの諸理論を折衷主義的に統合した形でローマに移入した。
古代ローマにおける弁論術は、クインティリアヌスによる『弁論家の教育』に一つの集大成を見るが、当時の帝政ローマではすでに言論の力は失われていた。後世の研究では『弁論家の教育』は当時すでに時代錯誤的であったとされ、クインティリアヌスの死は古典的レトリックの終焉を意味しているとも言える。
レトリックの伝統は絶えず批判・再解釈・再構成の対象となっている。
古代をレトリック研究の"源流"と捉え、その時期の実践・教育を"伝統"とする歴史の語りの問題点も含めて、現在でも様々な論争が行われ、レトリック自体の理解を深めることに寄与している。
第2章 1980年代までの現代レトリック批評
20世紀アメリカのコミュニケーション学では、「リベラルな市民的実践」「認識論的視点」「批判的=文化的視点」の3つの枠組の中でレトリック批評が展開した。
本章ではこの枠組に準拠し、それぞれの批評を解説する。
(以下、省略)
第3章 1990年代以降の現代レトリック批評
人種・階級・ジェンダーなどに対する問いかけは、権力批判というレトリック研究の理論的展開の局面において先鋭化され、レトリック批評に認識論的転回をもたらした。
(以下、省略)
第4章 議論の理論
アメリカの議論研究の第一人者ザレフスキーは、米国のコミュニケーション学での議論研究は、レトリック理論・公的言説・会話分析・対人コミュニケーション・交渉・競技ディベートに関わる者の研究領域となっているが、研究者間の対話が存在するわけではない、と述べている。
本章では1958年に始まった議論研究のルネサンスが、米国のコミュニケーション学、特にレトリック研究でどのように発展してきたのかを呈示する。
(以下、省略)
第5章 レトリックとペダゴジー
「ペダゴジー(pedagogy)」とは古代ギリシア語の"paidagoge"を語源とする言葉で、「子供を導く」ということを意味する。古代ギリシアでは教育システム一般を「パイデイア(paideia)」と呼び、人々とりわけ子供たちを公的な生活空間に導くためのもの、つまりレトリック・文法・自然科学などの教養教育を行うものであった。
古代ギリシアと現代社会では、「民主制」で共通し、「直接/間接民主制」という点で異なっている。両者を対比させながら、現在の教育的文脈におけるペダゴジーとしてのレトリック論を考える。
(以下、省略)
【今回の三行まとめ】
- コミュニケーション学の源流(の一つ)は古代以来のレトリックに起源を持つ。
- 現代のレトリックは権力への批判や認識論的観点などを取り込んだ学際的な領域として発展してきている。
- レトリックそのものの研究だけでなく、教育(ペダゴジー)のやり方についてもそのあり方を考える必要がある。
【今回の宿題】
- 特になし
……少し薄味な感じで。
「レトリック(修辞学)」に焦点を当てたパートだが、これまで意識して考えていなかったので自分の関心との距離を掴みにくかった。無視は出来ないが問題意識の次元がやはり異なる、といった印象でこのようなまとめ方に。
次の部がボリューム多めなので、そちらはしっかりやります。
それでは
KnoN(120min)