KnoNの学び部屋

大学に8年在籍した後無事に就職した会社員が何かやるところ。

現代日本のコミュニケーション研究 その6(前編)

 

引き続き

現代日本のコミュニケーション研究(日本コミュニケーション学会、2011)

第Ⅵ部 コミュニケーション学の問題系

をやります。

長いので前後編に分割しました。

 

現代日本のコミュニケーション研究

現代日本のコミュニケーション研究

 

 

 第1章 カルチュラル・スタディーズ

 近年、コミュニケーション学が研究対象としてきたものを反省的に捉え、新たに取り組むべき研究課題が提出されている。

→「真理」とされている知によって「主体」のあり方を規定しようとする規律型の権力や、自然に見える同意生産を促す権力に対し、そのような権力と人々が交渉する場(トポス)をコミュニケーション・プロセスに照準し前景化していく。*1

カルチュラル・スタディーズの様々な取り組みから得られるものがあるだろう。 

 

 産業革命期に英国人の間に生まれた「文化=物質的・知的・精神的な生活の仕方全体」の概念は、1964年にバーミンガム大学に設立された現代文化研究センター(the Centre for Contemporary Cultural Studies : CCCS)においてその研究実践が蓄積されていった。

 所長のスチュアート・ホールは

  • コミュニケーション・プロセスにおける、メッセージの生産を担うコード化(encoding)とその消費(読み)を担う脱コード化(decoding)それぞれの存在条件は、重層的に決定される。
  • 送受信者のコード化モデルのずれは、社会的・経済的・政治的なコンテクストによって生まれる。
  • メッセージにはその「優先的な」読みが予めコード化されている。
    →「支配的な」読み、「交渉された」読み、「対抗的な」読み

というモデルを提出した*2

 

 カルチュラル・スタディーズのさまざまな企ては、いくつかの対立図式を生み出してきた。

→カルチュラリズム vs 構造主義的アプローチ

→しかし本質的な特定の者が他の要素を決定するという決定論的な発想が後退するにつれてこれらの対立も無効化され、方法論のせめぎ合いを調停するものとしてのヘゲモニー概念が現れてきている。

 

 私たちは日常的な生活世界において、さまざまな節合的実践を行っている。

→ある規則に従い、あるものと別のものがつながれたり、反対にずらされたりするような実践。「優先的な読み」の場が算出しうるが、それは固定的なものにはならない。

 

 ミシェル・ド・セルトーによれば「生産」には2種類あるとされる。

  • 中央集権的な合理化された目に見える形で姿を現す生産
  • 支配的経済体制によって押しつけられた製品を、自分たちの利益に適うように変化を加えて使いこなすことによって自らを表象するための、不可視な生産

→後者の「生産」概念は、「消費(=脱コード化の実践)」を通じて「対抗的な読み」を獲得し、支配的文化への抵抗を行っていると言える。

 

⇒バルトも「奏でるという再生産」という形で「消費」と「生産」の繋がりを指摘している。与えられたものを独自に読み替えることで「生産的な消費」がなされる。

参考 ロラン・バルト(シリーズ現代思想ガイドブック) その8 - KnoNの学び部屋

 

第2章 医療・看護

 医療とは、医療者と患者の二人の人間が互いに力を合わせ、意味を構築・共有しながら双方の目的を達成するプロセスであると言える。

 しかしそのために導入されたインフォームド・コンセントなどの実践はその形骸化、あるいは単に医療訴訟に対するリスク管理としてしか捉えられていないと指摘されている。

 本章では医療・看護コミュニケーションを、人間のシンボル活動が生命・健康・病気・治療・死というかけがえのない経験に重大な影響を与えるプロセスと位置づけ、これまでの課題・手法を概観しながら今後の方向性や展望を検討する。

 

 医療への認識が従来の事実立脚医療からナラティブ医療に変化してきている。

  • 事実立脚医療EBM: Evidence Based Medicine)
    =医学の専門知識と経験を習得した医療者が患者に対して医学データに基づいた診断の下で行う医療。医療者側には意思決定権から生まれる権力を、患者側には身体的不快感や無力感を与え、両者の間の不均衡を生み出す温床となる。
  • ナラティブ医療(NBM: Narrative Based Medicine)
    =「患者には病気・健康・生命・死に対して個人的な『物語』があり、それを語らせることによって、患者が自分の状態に意味づけを行うことが出来る」という発想に基づく医療。個々の患者との間に人間と人間の関係を構築する。

→「お医者様>患者」の関係から「医者=患者」の関係へ。

→一方で患者としての立場を強く主張し「医者<患者様」とするトラブルもおきている。

 

 構造構成主義といった、医療を取り巻く人間関係に対して、メタ理論的アプローチを試みる新しい動きが急速に活発化している

 コミュニケーションの領域においては医学の認識論におけるスタンダードが、実証主義的なものから解釈主義的・批判主義的なものへとパラダイム・シフトを起こしている。

→医療者と患者が同じような状況・症状と遭遇しても、見方・感じ方・捉え方が異なる。

 

第3章 メディア・テクノロジー

 「メディア」には必ずそれを支える「テクノロジー」が付随する。本章は「メディア・テクノロジー」の作用を学問的に整理することを目的とする。

 

 先だってメディア、テクノロジーの意味を確認しておく。

  • メディア
    =コミュニケーションに参与する者/物の間に介在し、仲立ちとなるもの
  • テクノロジー
    =一定の知の体系を背景として構築され、人間と環境を繋ぐインターフェイスとして機能するもの
    →周囲の環境を整え*3、意味の秩序を打ち立てる。

 

 人間とメディアの関係性を考察するとき、しばしば参照されるのがマクルーハンの人間(身体)拡張論である。

→参照 現代思想の教科書 その9 - KnoNの学び部屋

身体拡張説
=技術というものは人間の身体の活動の延長であると考えられる。メディアはその中でも、人間の記号活動を行う感覚器官としての身体の延長であると位置づけられる、という考え方。
テレビ→〈視る〉〈聴く〉
電話→〈聴く〉〈話す〉

 

 「口承メディア→活字メディア→電子メディア」と段階分けされるマクルーハンのメディア史観において、現代は技術の外爆発(explosion)から内爆発(implosion)に移り変わっている時代であるという。

  • 外爆発→身体の技術的拡張
  • 内爆発→人間意識の技術的なシミュレーション。"電子メディアは意識のシミュレーションを可能にし、頭脳と神経とを外部化することで人間を新たな生命体へと変えてしまう"

 

 マクルーハンのメディア論は大きな影響を与えたが、それを技術決定論的だとして批判する声も大きい。

→個々のメディアを構成するテクノロジーの特性を過大視するマクルーハン理論の傾向性は無視できない。

 

 ボルツは新旧のメディア・テクノロジーの絡まりについて、「メディアのメディアとして振る舞うようになる」とその相克的な関係について述べている。

 また〈メディア複合体〉という用語で、デジタル技術によりそれぞれのメディアはもはや単独では存在できなくなっていると指摘している。

 

 

【今回の三行まとめ】

  • 近年のコミュニケーション学が研究対象としてきたものへの対象をふまえ、カルチュラル・スタディーズの試みが新しい展開への参考になると考えられる。
  • 医療への認識が実証主義的なものから解釈主義的なものへ、あるいは事実立脚医療からナラティブ医療へと転換し、医療者と患者の対等で相互の関係を気づく方向へと変わっていっている。
  • メディアとテクノロジーの関係を考える際にマクルーハンの身体拡張論は重大な示唆を与えるが、その偏りを意識しつつ錯綜するメディア間の関係についても考えなければならない。

 

【今回の宿題】

  • ホールの提出したモデルの詳細

 

……実質はいつもと同じくらいなんだろうけど、やたら集中が切れて無闇に時間がかかってしまった。

 カルチュラル・スタディーズはよく名前を聞くが、その実体についてはよく掴めていない。すごく曖昧な領域であるようにも思う。

 なぜ医療のコミュニケーションは特に注目されるのか。そこが疑問。

 メディアの話は以前にもしたので適当に。

 

それでは

 

KnoN(--min)

*1:規律訓練型権力環境管理型権力については現代思想の教科書 その7 - KnoNの学び部屋を参照のこと

*2:Hall, 1973:1980

*3:オングは「技術とは人工的である。しかし、これも逆説なのだが、人工的であることは、人間にとって自然なのである」と述べている。
 人間がその生来の能力によって技術的に構築した環境は「第二の自然」と呼べるものとして私たちの周囲に展開し、ワイルドな「第一の自然」から私たちの存在を保護する。