現代思想の教科書 その13
毎年この日は落ち着かない気分です。
というか8月そのものがなんだか浮ついてて苦手。
引き続き
現代思想の教科書 (ちくま学芸文庫)(石田英敬、2010)
の
をやります。
13 ナショナリズムと国家 ーナショナリズムを克服するー
本章では小森陽一を講師とし、現代における国民と国家の関係について考える。
「国民国家」という制度
20世紀末から21世紀初頭の現代において、18世紀頃から続いてきた「国民国家(Nation-State)」の政治的共同体が大きな危機を迎えている。
→「国民国家」が自明でなくなることによって、「国民的なるもの」への様々な問いかけが私たちの思想的な課題として浮かび上がってきた。
国民国家を考える上で外せないキーワードが「戦争」である。
→戦争という共同体の危機に際し、個人は共同体の成員(=国民)であるという自覚を強くする。
→しかし一方で、非常事態としての戦争は集団を個人に優先させ、「国民の契約によって成立している国家が、国民を抑圧する」という矛盾した状況を招く。
→近代においてはメディア(特に電信・新聞)の発達により、直接兵役に就いていない銃後の国民も国家総動員態勢の中の自らの立場を自覚し、「国民意識」が形成されていった。
⇒かつて傭兵によって戦われていた戦争が、「国民」からなる常備軍から行われるようになったことがこれを象徴する。
(さらに元を辿れば、古代ギリシア・ローマ時代より武器を持って参戦することは市民の義務であった)
国家の「近代化」にあたり、その統合の為に国民意識(=国家という共同体の成員であるという自覚)を生み出すことは喫緊の課題であった。
戦争という外圧への対抗だけでなく、「国語」や「文化的アイデンティティ」の整備が急速に進められた。
→日本でも、江戸期は各藩の「お国言葉」が特徴を持っていたが、明治期に入り陸軍・海軍での言葉遣いを元にした「標準語」が、ある意味人工的に作られた。
→また新聞という大衆メディアが、「国民」に対し同時的に共通の情報を届けることで、共感・共同性の幻想を生み出すことに繋がった。
特に新聞小説は夏目漱石のような「国民作家」を生み出し、「感情的な共同性」の確立に影響した。
このように「国家」というものは、人工的に作り出され歴史的に成立した「制度」であると言うことが出来る。
学問の中のナショナリズム
これまで学問は西欧的な枠組の中で考えられることが多かった。
1990年代以降の「ポスト・コロニアル」「カルチュラル・スタディーズ」という研究動向を、アジアやアフリカ、あるいはクレオールといった様々な異なる歴史的文脈を持つ人たちが担ってきているのは注目すべきことである。
→歴史や言語、文化や哲学についての研究が「国民」という近代的な枠組を越えて行われるようになってきている。
夏目漱石はロンドン留学時、当時の流行である「ヴィクトリア朝文学」に触れた。ヴィクトリア朝文学は上流階級の若い男女をモチーフにしたものが多く、いわゆる大衆文学である。
一方で東洋の教養を備えていた漱石に取って、「文学」といえば中国の歴史を中心とした「漢籍」であった。
→この二つは到底同じ定義の元に位置づけることが出来ない。
仮に人間の社会文化が進化論的な発展を遂げるとするならば、世界中がイギリス風のヴィクトリア朝文学にならなければならないが、文学というものはそうではない。
→ヨーロッパにおける近代化・ナショナリズムのプロセスは、あくまで一地域の枠組の中で成立したものであって、人類の普遍的な進歩の在り方ではない。
一国の枠内で学問を捉えることは不可能であり、「ポスト・ナショナル状況」として志向の枠組を問い直す必要があるのである。
ポスト・ナショナルな時代の統合原理
学問の領域ではナショナリズムに対して過去15年ほどの間に研究と分析が進み、歴史的な諸問題についても新たな解明が進んでいる。
また生活のレベルにおいても世界の拡大や国境の相対化、人や情報のボーダーレス化が進んでいる。
→しかし人々が国民国家やナショナリズムから自由になれたかというと、必ずしもそうではない。
19世紀から20世紀の産業資本主義の前段階で考えてみると、資本の利益と国家の利益は密接に関係していた。国家は資本が上げた利益を国民に再分配する「分配の論理」で成立していた。
→20世紀後半以降の「新自由主義」により、この再分配がなくなり、企業は多国籍化することで国家の枠組に囚われない競争を行うこととなった。
→資本と企業のグローバル化によって、世界中の労働力や資源が食いつぶされている、と言える。
富めるものと貧しいものの格差が拡大していく中で、彼らの「寄るべなさ」を支えるために、拠り所としてのナショナリズムが大量生産され、反復的に供給されている。
→グローバル化の裏表としてナショナリズムが引き起こされている。
→憲法は本来「主権者である国民が国家に対して制約をかける」最高法規として位置づけられるものであるが、日本国憲法改正の議論の中では、「憲法を通して国民のアイデンティティを形成する」「愛国心の育成や非常事態における国民の義務を盛りこむ」ということも提案されている。
→「国民が国家を縛る」のではなく、「国家が国民の在り方を規定する」ような方向性に転換してきている。
→自然発生的な形でナショナリズムを維持することが困難な時代であり、ポスト・ナショナル状況における国民統合の原理を考え直さなければならない。
⇒ヨーロッパからの移民によって成立した国家であるアメリカでは、その統合の基盤を民族的アイデンティティではなく「合衆国憲法とそこに示された価値観」に求めている。
【今回の三行まとめ】
- 現代では「国民国家」の枠組が大きな危機に瀕している。そもそも「国民国家」という概念は近代化の中で国家統合の原理として作り出された「制度」であり、その成立には戦争という外圧やメディアによる共同性、国語の統一といった要素が含まれていた。
- 学問においても従来は一国の枠組の中で、特に西洋的な価値観の中で行われることが多かった。しかしそれは限定的な成立条件の元でのことであり、現代においてはそれらも相対化して捉え直さなければならない。
- 経済や文化のグローバル化の副産物としてナショナリズムが求められている。経済的な格差の拡大や、価値観の多様化・流動化の中で拠り所としてのナショナリズムが大量に供給されている。
【今回の宿題】
- 古代世界の市民権と、現代の国民の義務の違い
……今日という日にこんなトピックが重なったのは偶然ですよ?
東アジアにおける反日・反中・反韓などの連鎖や、ヨーロッパでの移民排斥運動などを見ると、改めて考えるまでもなく非常にデリケートな問題だと思います。
価値観が流動化する時代の中で、ナショナリズムのようなわかりやすい「大きな物語」の持つ求心力はかなりのものです。しかしテキストでも述べられているように、それが権力者によって国民をコントロールする手段とならないように注視していく必要があるでしょう。
それでは
KnoN(120min)