知の編集工学 その6(前編)
ここ二日ほど家に引きこもって過ごしていたら、なんだか身体が重くなった感じがして気持ち悪いです。
この記事書き終わったら今日は外に出てこようと思います。特に目当てとなるようなものもないけど。
引き続き
の
第六章 方法の将来
の第一節をやります。
第六章 方法の将来
思考がその手段としての道具を求めるように、手段もまた思考の有り様を規定する。ここでは「電子の中の編集」としてデジタル時代の方法の可能性を考える。
文房具今昔
かつて文房四宝とよばれ文房具の中心として扱われていたのは、筆・墨・硯・紙であった。
それが近代を迎え西洋の文明を取り入れるようになってくると、紙を綴じたノートと携行が容易な万年筆が普及する。さらに科学技術の発展に伴い電信・電話・写真機などが加わった。
当のヨーロッパではタイプライターも欠かすことができないだろう。タイプライターさえあれば、作家はどこであろうと文筆活動に勤しむことができたのである。
しかし最も画期的な文房における革命は録音装置(ボイスレコーダー)とコピー機の登場だろう。「声が記録できる」「書き写さずとも複写できる」ということはそれまでの<編集の歴史>を一変するのにふさわしい出来事だった。
ところがこれらのいずれをも凌駕し、思考の有り様に大きな衝撃を与える道具が突然に出現することになる。Apple社が世に送り出したMacintosh(Mac)である。
Macは個人ユーザーの使い勝手を重視し、デスクトップ・メタファーとマルチウィンドウによるユーザーインターフェース(UI)を採用した。この仮想の「書斎机」により誰もが現実にやっているのと同じように、直感的にコンピュータを扱えるようになった。
センセーションを巻き起こしたMacだが、不十分なところがない訳ではない。著者はMacの(というか当時のパソコン周辺の)不満点として「デスクトップ・メタファーの限界」と「物語性の不足」を指摘する。
次節以降ではこれらをさらに検討する。
和歌というマルチメディア
一つ目、デスクトップ・メタファーの限界について。
私たちが情報編集の枠組として「ワールド・モデル」を用いていることはすでに説明した。*1しかしデスクトップ・メタファーは「ワールド・モデル」を提示するには至っていない。
→Macは近代的自己の実現を理想の前提として設定している。人々を白紙の状態から出発させ、そこに各自でファイルやスタックやハイパーカードを充実させることで自分也の便利な編集を目指す。
→個人が自由の出発点を持つことを意図している。
しかし実際には我々は情報の前では白紙にはなれない。情報は常に編集途中の状態で我々の前に投げ出される。
→Macにはこの視点はなかった。ではどのような方法があるのか?
たとえば、「和歌」という方法がある。
これは万葉集と古今集の時代に一挙に成熟した一種の編集方法で、万葉古今的な世界を充分に熟知することで、かなり自在に情報を律動的に編集できるようになっている。
(強調は筆者)
現在の情報技術のタームと対応させながら、和歌のマルチメディアの道具としてのポテンシャルを確認する。
- プロトコルとしての枕詞・歌枕
→例えば「たらちねの」というパスワードが入力されれば、即座に「母」に関連した情報が呼び起こされる(枕詞)。
また歌枕はよく和歌の中で用いられた題材のことをさすが、「宇治」というテーマならばそこに「網代のようないりくんだ人生」「そこに漂う川霧」「世を宇治山(世を憂し)という儚さ」というイメージまで同時に連想させることができる。
→一つのキーワードから"縁語"でさまざまな情報が連鎖して現れてくる。 - スキーマとしての「ながめ」「おもひ」
→万葉集なら「ながめ」、古今集なら「おもひ」ということばが使われていれば、作者がどのスケールの視野でものごとを考えているか、を読者に正確に伝えることができる。
⇒「ながめ」「おもひ」という技法がよくわからなかったのだが、視点・視野を定める方法があったことを押さえておけば良いだろう。 - データベースとしての「花鳥風月」「雪月花」
→元は自然の美しい景物を指す語であるが、和歌においてはその取り扱い方に「古今伝授」という正式な作法がある。つまり名所のひとつひとつに対し、それにまつわる情報が一定の様式として決められていた。
→「文法」として枕詞などの活用法や作例などを習得しなければならず、教養として理解のレベルが一定以上の水準にあった。 - スロット・レパートリーとしての「そろひ」「きそひ」
→ある程度の情報がシリーズ化されており、たとえば春の「さくら」という語から秋の「もみじ」といった情報さえ潜在的に提示することができた。 - ハイパーテキストとしての本歌取り
→本歌取りとは別の一首の一部を自らの和歌の中に引用する技法。まるまる一首分の別の情報を取り込み、表現効果に重層性をあたえることができる。
このように、和歌はあらゆる提示情報(用いられる語)に膨大な周辺情報が付属し、さらにそれが広く共有されているという特徴を持つ。
→和歌は一語一語が広大な背景を含んでおり、「白紙」として提示されることはありえない。
……また小説の話を援用する。少し前までは、文章の「上手さ」の本質を「いかに多くの情報を短い表現の中に織り込むことができるか」だと考えてて重視していた。一語の選択を丁寧にすることで、それこそ情報の広がり・奥行きを読者に届けられると考えていたからだ。
ここで説明していることもそういうことなんだろう。
物語れないコンピュータ
二つ目、物語性の不足について。
物語は<マザー>を持ち、その共通感覚を使うことで、そこからかなりの物語型の情報編集が駆動してくる。物語型の情報編集には、小学生の日記からビジネスマンの営業企画まで幅広いものが含まれる。
このように物語型のシステムは日常の情報を編集するために非常に有用なのだが、物語的構造感覚というものがパソコンの中には入っていないのだ。
コンピュータの中ではツリー型、あるいはスプレッドシート型に情報が処理されている。これを改め、「知識は物語構造の中で表示できる」というところから再出発しなければならない。
→物語というものは、縮めて言えば5W1Hをくりかえす出来事の連鎖である。その出来事の連鎖に関するいくつかのダイナミック・モデルを作成し、それにしたがって情報編集が進むようにすればいい。
しかし現実にはなかなか上手く行かない。「人間とコンピュータの間の
溝」がなかなか埋まらないからである。*2
→ノイマン・ボトルネック=ある手続きがデータを参照するためには、特定の経路を通らないといけないため、並列処理が不可能になる。
ところが物語は、中心の軸にこそ一本の筋があるにせよ、その途中にはいくつもの脇道が併存して数々の複雑さを作り出している。これをうまくコンピュータで表現できれば良い。
→ノイマン・ボトルネックはそのままに、新たな設計思想とインターフェースで<ナラティブ・コンピュータ>を作り出すことは可能である。
⇒筆者はコンピュータ業界の現在とか詳しくないけど、こういうコンピュータは2014年現在どこまで開発されているんだろう?
ノイマン・ボトルネックに関しては記憶の階層化などで緩和が図られているらしいが、根本的な解決策は見つかっていないようだ。
一般に、電子文房具の開発では、なんとかWHATとHOWを重ねたいというのが目標になっている。これが現在の開発者たちの"悲願"である。
→たとえば自動車の場合、What(なにをしたいのか)とHow(どうやってそれを実現するのか)は比較的簡単につながるようになっている。「左折したい」とドライバー考えれば、「ハンドルを左に切る」という操作を行えばメカニカル系が仲介してそれをすぐに実現してくれる。
しかしコンピュータ(電子文房具)の領域では、WhatとHowの間にある2つのアルゴリズム、「人間の思考」と「コンピュータの計算」がうまくつながっていないのだ。
問題・目的(What)
↓
人間のアルゴリズム(思考)
↓
↓
コンピュータのアルゴリズム(計算)
↓
プログラム実行(How)
この「溝」の正体はなんなのか。
それはじつは「知識」というものなのである。
→「それが何か」(What)と問うことが、「それはこのように使えるものだ」(How)という方法とつながれば、知識はWhatとHowの溝を埋めてくれる。
→それがなかなか上手く行かない。特にコンピュータの中では分からないことが多く、「知識を数値的な単位に変換して扱う」というアプローチが取られてきた。しかしそれは知識を「コンピュータのアルゴリズム」に近づけただけ、人間が機械に合わせているだけである。
人と機械を取り持つために
問題の解決の方法は3つある。それには<知識編集システム>が介在する必要がある。
- 知識そのものをアルゴリズミックに並べ替えておく:人工知能型の知識工学のアプローチ
- 知識を運ぶハンドリングの方法に「人間」と「コンピュータ」を和解させるようなOSとインターフェースを導入する:Macのアプローチ
- 知識の仕組みそのものをアルゴリズムの間に埋め込んでしまう:編集工学のアプローチ
一つ目は知識工学の考え方である。
知識を「知識ベース」の部分と「推論機構」にのる知識の部分との二つに分ける。
知識ベースの知識単位を「IF~THEN」の形式をもつプロダクション・ルールで、推論機構にのる知識単位を「AND~OR」の形式をもつモジュールで処理する。
この方法は悪くはなかったが、知識の持つ5つの側面(事実知、判断知、推論知、排除知、融合知)のうち、前者3つ(事実知、判断知、推論知)しか取り扱えていない。
さらにこのときコンピュータに入力される知識の体裁を「宣言的な知識」と「手続き的な知識」に分けている。
宣言的な知識(declarative knowledge)=見ればすぐに分かるような知識。オムレツや目玉焼きそのもの。
手続き的な知識(procedural knowledge)=オムレツや目玉焼きの作り方。宣言知を重ねても得られることはない。
→しかし知識とその運用方法が分かれているのはコンピュータの都合に過ぎない。多くの人間に取っては「オムレツを知っている」=「オムレツの作り方を知っている」となるのである。
→編集工学は第三のアプローチとして、このような「知識の使い勝手を拡張しながら変える」という方法を取っている。
編集工学的アプローチの前提となっているのは「オブジェクト指向プログラミング」という方法である。
ここで"オブジェクト"とは「自分に関する知識」あるいは「自分自身についての内部状態」をもっている情報単位を意味している。
→すべてを要素に分解しきらない、適度な「まとまり」として情報を編集する。
→「見当」を応用した方法と言える。
このように、データのいちいちを知識表現として捉えるのではなく、ある種の「かたまり」をデータ構造(カプタ)として、そのデータ構造の"型"(エディトリアル・・モデル)のようなものを編集の対象とすることで、その"型"ごとの操作性を付与したモジュールで情報編集を進める、というのが編集工学的なアプローチとなる。
→この"型"の活用に、物語的な情報編集が積極的に関与してくる。
編集工学では、電子的な情報の取り扱いを次のような手順で行う。
- <単語の目録>を「定義の言葉」「操作の言葉」「問い合わせの言葉」に分ける。
- 情報を「クラス」(これ以上分割すべきでない内部を持つ意味単位)と「インスタンス」(クラスの記述により例示できる情報)に分ける。
- 情報間に<意味継承のリンク>を張る(=「インヘリタンス」(継承)*3)
- 相互に<マスキング>をかけた物語の"型"をつかって情報編集システムを編集する。*4
→どのように"型"が相互の情報を関係付けられるか。 - 関係線には「ナビゲーション」「類推」「編集」の大きく3つがある。
これまでの説明を総括して、著者は<編集>を改めて定義している。
<編集>とは、結局は情報がさまざまな役柄を得て、いっときの場面を演じるゲームを、別の視点から同時分散的に演出するということなのである。
情報はアクターであり、システムは舞台なのだ。それには情報という役者は、たんなる意味単位であるだけではなく、どのような動きをするかという操作性を内属させたモジュールでなければならなかった。ただしそこには少なくともひとつの「物語」が必要である。情報という役者はその物語にそって劇的に動くのだ。
(強調は筆者)
【今回の三行まとめ】
- MacはすぐれたUIで人間とコンピュータを結びつけるモデルを提示したが、「デスクトップ・メタファーの限界」と「物語性の不足」という点で不充分であった。
- 「和歌」のようなものをメタファーにしたモデルを考えることで、よりマルチメディア・ライクなツールが生まれる可能性がある。
- 人間とコンピュータを繋ぐためには「物語的構造感覚」をコンピュータに導入したい。「データ構造」と「型」を扱う情報編集の方法を考えることでそれは実現できる。
【今回の宿題】
- ……特になし?
……これまた長い。どんどん長くなっている気がする。
話の内容自体は分かりやすかった。特に和歌の部分は、整理された形で説明されたことで自分の小説の話とすんなり繋がった。
またコンピュータ・サイエンス的な話が多かったが、今回は専門的なところまで踏み込んでいないので問題なく読み進めることができた。
最終章にはいり、いよいよ具体的な「やり方」の話の比率が大きくなってきているようだ。
それにしてもタイミングよくゴールデンウィークに重なってよかった。平日にこれとか、一節の半分もできずに制限時間が来ちゃいそう。第六章だけで全六回とかの連載になるとこでした。
当初見込みよりずいぶんずれ込みましたが、予定通りどこかに出かけてくることにします。
それでは
KnoN(160min)