KnoNの学び部屋

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哲学入門 その8

引きこもっている訳ではありません。

毎日本読んで、ブログ書いて、週に二回ほど講義に出て、気分転換に散歩や買い物などに出かけたりもしております。

いや、なんだか心配されていたみたいなので。

 

引き続き

哲学入門 (ちくま新書)戸田山和久、2014)

人生の意味——むすびにかえて

をやります。

 

哲学入門 (ちくま新書)

哲学入門 (ちくま新書)

 

 

人生の意味——むすびにかえて

 このテキストの締めくくりとして「意味」ついて、ただし「人生の意味」について再び考える。人生に意味はあるのか。あるならばそれはどのようにあるのか。

 しかし、何が何でも人生に意味を見出そうとすることがどんな場合でも望ましい訳ではない

→ヘレニズム期のストア派は、決定論を認めることで人生の浮き沈みに一喜一憂することがなくなり、魂の平穏が得られると考えていた。

  • どのような「人生の意味」が(唯物論的・発生論的・自然主義的な)科学的世界観と両立できるのか
  • それはもつに値する「人生の意味」なのか

について考える。

 

 

人生の意味を脅かすもの

 科学的世界観が人生の意味を蝕む仕方は三つあるように思われる。

 

1. ハード決定論(非両立論)を通じて

◯人生の意味の可能性は、選択の自由の能力に関係していると思われる。
→ハード非両立論の世界では、決定は外部環境と内的傾向性によって因果的になされる。そこの「自由意志」による選択は存在しない。

 

◯しかしそのような人生にも意味を与えることはできるとペレブームは主張する。

→先天的な才能・特質、幼少期の教育によるものなど「本人の意志的努力」で手に入れたのではないものによって何かを成し遂げたとして、それに喪失感を感じる人はいない。

→決定論の元では「自分は価値ある存在で価値あることを成し遂げたが、それによって称賛されるには値しない」と信じるようになるかもしれないが、「自分の人生に意味と価値を見失う」ということはない

 

◯また、「意志的努力」による成功はエージェント(主体)の価値を高めるが、それが自由意志の結果によるかどうかは大きな影響を持たない。

→自由意志による決定であるかよりも、「取り組みが道徳的に適切な内容であったか」「さまざまな選択肢から検討したかどうか」「外部に強制された決定ではなかったか」などが、エージェントの価値を高めるための要因となる。

 

「どんな人生も一様に生きるに値する」という命題は正しくなさそうに思われる。

→われわれは日常的に「自分の人生の価値を高めよう」と努力しているという事実に反するから。

→「自分の人生の価値を高める」だけでなく「他人のそれをも高める」ように努力することが重要。

 

 

2. ダーウィニズムを通じて

◯ダーウィニズムとは「われわれは進化の産物に過ぎない」という見方

→特定の目的の為に進化してきたのではなく、小さいステップの繰り返しの結果として今がある。生きること総体には目的はない。

 

◯人生総体の究極目標を求めてしまうのは、目的手段推論のための能力のある種の暴走だと言うことができる。

→目的手段推論のために高次の自己コントロール能力を手に入れたが、それによって可能になる「今現在の行動→その目的」の推論は、目的手段推論の「本来の機能」ではない。

→目的を探索する推論は「目的手段推論」の機能不全である。

 

◯われわれは何か自分を越えた大きなプロジェクトの中に自分の役割を見出し、「大きな物語」の中に自分の生を位置づけるということを行ってきた。

 しかしトマス・ネーゲルはこの考え方を否定している。

→仮に自分の外部にある大きな目標が人生に意味を与えてくれるとする。しかしその中でわれわれの人生に意味が与えられるためには、われわれの人生の究極目標自体が自分に取って有意義であることが必要となる。

→しかしこのような目的・価値を自分の中においてしまう(同化してしまう)と、「そもそもそれは何のためか?」という問いが可能になり、究極目標たり得なくなる。*1

 

◯(ネーゲル)人生は短めの目的手段連鎖の集積である。一つ一つの目的手段推論を真面目に行い、その都度の自分の目的に取っての最善手を取ろうとしている限りにおいて、われわれは自らを価値あるもの・人生を生きるに値する者として受け止めている。

⇒今やっていることからその目的を推論することはできない。究極目標なんてものはない。今を真摯に生きることが自らに生きる価値を認めている態度である。

 

 

3. 客観的な認識能力を通じて

◯例えば宇宙規模の何十億年というスケールを考えたときに、人生の数十年などあまりに取るに足りないものだと感じられてしまう。

→宇宙の歴史を客観的に認識すればするほど、自分の主観的な価値の無意味さが強調される。

 

◯(ネーゲル)こうしたわれわれの卑小さは、人生の無意味さを立証する論拠にはならない。しかし「そう思ってしまう」ことの説明にはなる。

→「人生を生きている当の本人なのに、その人生に対して外的・客観的な観点を取り得てしまう。このギャップが人生の無意味さを生み出している」

 

◯「自分自身を客観的に見る」という表象の能力は、人間が進化の過程で「オプション付き」オシツオサレツ動物になるために獲得した能力である。

→人生の意味/無意味について考えるということは、「自己中心的でないマップを表象する」というわれわれが生存のために獲得した能力の(正しく機能した上での)副産物であるといえる。

 

 

デフレ的な人生の意味

 これら三つの原因の中で、3.がもっとも手強い。どう対処して行けばいいのか。

→生存のための機能が正しく作用した結果としての、避けられない副産物だから。

 

◯この種の人生の無意味さの原因は、「主観的に重要な自分」と「客観的にちっぽけな自分」という二つの視点のギャップにある。

→そのどちらかを捨てる、という解決方法が考えられる。

→微視的なスケールでの生を謳歌するか、巨視的なスケールで悟ったかのように過ごすか。

→実現性はかなり低い。

 

◯しかしネーゲルは「そもそも人生の無意味さは解決を要する問題なのか」というところからスタートする。

→人生の無意味さこそがわれわれに関することがらのうちで最も人間的な要素の一つなのではないか。

→これを受け入れ、双方の視点をアイロニカルに行き来しながら進んで行くという生き方。

 

 人生の超越的な無意味さは、われわれの生から消すことはできない。ならば、それをわれわれの人生の構成要素としてアイロニーをもって受け入れて生きていこう、というわけだ。

 アイロニカルなニヤニヤ笑いを浮かべながら人生に戻ってきたら、そこでジタバタしている限りにおいて、われわれは自分の人生を生きるに値するものとしてみなしていることを態度で示している

 さらには、環境に決定されているかもしれないし、わずかな自己コントロール能力の結果としてなのかもしれないが、ともかく決定を積み重ねて自己をつくっていく過程の中で、われわれはより生きるに値する自分と人生をつくることもできる

 (中略)これが「望むに値する人生の意味」である。

(改行、強調は筆者)

 

 

【今回の三行まとめ】

  • 科学的世界観は主に三つの点で「人生の意味」を脅かす可能性がある。
  • その中で特に「客観的な自己認識の能力」はわれわれが生存のために獲得した能力であり、それにより「主観的に重要な自分」と「客観的にちっぽけな自分」という二つの視点のギャップが生まれるのは避けられない。
  • ネーゲルは対処法として「無意味さをもアイロニーを持って受け入れていく」という態度を提案する。「人生の意味」を過大評価しないことでその価値を強調している。

 

【今回の宿題】

  • 「究極目標」を巡る議論について
  • 結局ネーゲルの提案は「人生の無意味さに耐える」ことへの回答になっているの?

 

……これで本編は終了。内容自体は理解しやすかったですが、論をテンポよく進めて行こうと考えたら箇条書きっぽくなってしまいました。

 2.のダーウィニズム、というか究極目標を仮定したような発想はたびたびしてしまうことがあるが、それも「結果から見ればこういう意味を持っていた」という自分を納得させる方便以上のものではないような。

 いや、自分も常にある種の理想状態を目標に掲げてから行動するタイプですが、それに反した人生が「無意味」という訳ではありませんよね。……いや、自分がどういう人生を送れば「意義ある」のかという価値判断がそこに入っているのか。

 例えば(自分に取っては)工場で延々と同じモノを作り続けるなんていうことには耐えられそうにない気がするような感じで。

 最後ぐだぐらしてしまいましたがこの辺りで。明日は全体のまとめをやります。

 

それでは

 

KnoN(80min)

 

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*1:ここ、ちょっとよくわからないですね。
「自分は何のためにこの究極目標を達成しているのか?」「究極目標を達成することが自分に取ってどんな価値があるのか?」ということに悩むようになってしまうということ?