知の編集工学 第二部まとめ
今日は午後からサッカー観戦。
そのあとは高校時代の友人と飲み。
ゴールデンウィーク満喫中。
……こんなことしてていいのか?
今回は後半のまとめとして
知の編集工学 (朝日文庫)(松岡正剛、2001)
の
第四章 編集の冒険
第五章 複雑な時代を編集する
第六章 方法の将来
の振り返りをやっていきます。
昨日の予告では「全体のまとめ」をすると言っていましたが、やはり「第二部 編集の出口」としてまとめておこうと思い直しました。
第二部は「編集の出口」と題して、より具体的な内容に踏み込んだ記述が多かった。ここではその中でも中核を占める<エディトリアリティ>という概念について改めて振り返ってみたい。
改めて、<エディトリアリティ>の真価
エディトリアリティ(editoreality、編集的現実感)
<エディトリアリティ>はこれまでこのように定義されている。
重要な点は「普遍的な共通の感覚」であることであり、それをささえているのが「もっともらしさ(plausibility)」という感覚だ。
<エディトリアリティ>の本質を一言で表すならば「もっともらしさ(plausibility)」ということになる。
⇒本来的にその真偽を確かめる術はないのに、「なんとなく」事実であるように感じられる・納得してしまう、という感覚。まことしやかで奇妙な現実感。
ここに<編集工学>においてもっとも重要となる視点、<自由編集状態>へと至る道筋の鍵が示されている。
いままさに自分のアタマの中で動いている編集プロセスをリアルタイムで観察しようというエクササイズである。すなわち、自分のおもいが流れているままに、そのプロセスを同時に観察するということだ。次々に進む「注意」の移ろいを観察しようというのである。
(強調は筆者)
<エディトリアリティ>を感じる状態とは、「自分とは関係のないことを、あたかも自分に関わることとして受け止めている」状態であると言える。
これは別の言葉で言えば「主体と客体の曖昧化」、あるいは「自分と周囲の合一」となる。
主体のしての感覚を持ちながら、その自分の思考の道筋をフラットな気持ちで眺めてみる。まさに<エディトリアリティ>が実現しているときに、<自由編集状態>が達成できていると言える。
情報はひとりではいられない
<編集>を思考の手段と考えたとき、それを実現・手助けする道具(ツール)の存在も同時に想起される。
思索の道具と言えば文房具であり、それはかつての紙や筆、タイプライターやワープロ、そして今ではパーソナルコンピュータ(あるいはスマートフォン)となってきている。
テキストが執筆された1996年当時、パソコン業界でもっとも革新性のあるツールとして考えられていたのがMacintosh(Mac)であった。
「デスクトップ・メタファー」に「マルチウィンドウ」を採用したユーザーインターフェース(UI)は、利用者のやりたいこと(What)とパソコンにどうやらせて実現するか(How)の距離を格段に短くした。
これは「人間のアルゴリズム(思考)」と「コンピュータのアルゴリズム(計算)」の間を取ったアプローチだったと言うことができるだろう。
Macは人間とコンピュータを結びつける優れたアイデアの一つではあった。しかし著者は「デスクトップ・メタファーの限界」と「物語性の不足」という2つの不満点を指摘している。
前者は、そもそも人間の「思考」というものが、書斎で行われているような営みとしてだけ表現しきれるのか、という問題に言い換えることができるだろう。
デスクトップ・メタファーは、"近代的な自己"、あるいはなにもないまっさらな机の上からのスタートを前提としている。
しかし実際には情報というものは「広大な文脈の中の一点」であり、「そこにあるだけで多くの背景情報を内包している」という特徴を持つ。"情報は常に編集途中の状態で我々の前に投げ出される"のである。
この視点を有するメディアとして、著者は「和歌」を例として挙げている。この文化芸術は一語一語に背景と奥行きを持たせた、多重性をもつメディアである。
いわば「古今集メタファー」や「歌枕メタファー」をもつコンピュータをデザインすることで、「現在進行形で編集される思考」を扱えるツールが開発できるのではないかというのが著者の提案である。
後者も本質的にはこれと変わらない。
「物語」は原型となる<マザー>を持ち、さまざまなバリエーションを生み出している。一つの物語は類似した別の物語を連想させ、それらの共通点・相違点といった視点までも提供しうる。
とにかく、情報を「単体のデータ」として扱うのではなく、無限の広がりを持った「意味を内包するカプタ」として扱うようにできることが、人間と(道具としての)コンピュータを繋ぐための鍵なのだ。
人間を「意味を内包するカプタ」の一種として捉え、交流をその中の「似たような意味情報の交換=<エディトリアリティ>のある<エディティング・モデル>の交換」として考え直すことで、人間と人間、人間とコンピュータの新しい繋がりの形が見えてくる。
情報は単独で存在するのではなく、大きな文脈の中にある。そしてそこからどのような意味を取出すのかは、これも個別の文脈の中にいる受け手次第。
そのプロセスを少しずつ明らかにするために、<編集工学>はいろいろな切り口をもった「自分とは、世界とは何か」という問いに対する考え方を追究している。
【今回の三行まとめ】
- <エディトリアリティ>は主体と客体の対比を曖昧化させ、より本質的な自他の共感を生み出しうる。
- 人間とコンピュータ(道具)の間にいかにして<エディトリアリティ>を持たせるかが、新しい思考を前進させるための手助けとなる。
- 情報は単独で存在するのではなく、大きな文脈の中にある。そしてそこからどのような意味を取出すのかは、これも個別の文脈の中にいる受け手次第。
……第二部まとめ、ということで自分なりの解釈でテキストを咀嚼し直してみました。細部は粗くとも、確信となる部分は自分の内側に取り込めたように思います。
あらためてみると、あんまり「まとめ」になってない……?
次回こそ全体のまとめ、今回扱い損ねた「あとがき」をおいながら全編をおさらいします。
それでは
KnoN(90min)