現代思想の教科書 その7
雨風の中でも鳴き続けるセミに気づいたのが今日一番の驚き。
根性あるな……!
引き続き
現代思想の教科書 (ちくま学芸文庫)(石田英敬、2010)
の
7 「権力と身体」 ー権力と主体化ー
をやります。
7 「権力と身体」 ー権力と主体化ー
私たちはどのようにして社会的主体、つまり国家や会社やその他団体の成員となり、社会的なひとつの身体の一部になっているのか。
社会の編成原理がどのようになっているかについて、フーコーの「規律型社会論」手がかりに考えていく。
社会があなたを主体化する
ミシェル・フーコーはフランスの哲学者である。
実存主義哲学のジャン=ポール・サルトルの次の世代を代表する思想家で、『狂気の歴史』『知の考古学』『監獄の誕生』などの数々の重要な著作を発表した。
権力というものを考えるとき、近代において重要なのは「普通の人々の身体に非個人的に働きかける」権力を考えることである。
→特定の権力者による強制力ではなく、社会の制度として働きかける権力が、人々を知らず知らずのうちに社会の合理的な秩序に従う社会的な主体に変えていっている。
フーコーはこのようなタイプの権力が、具体的には「人間の身体を訓練し規律化する」ことによって社会的身体の主体を生み出していることを指摘した。
→人間にディシプリン(discipline、規律)を与える「規律(訓練)型権力」により秩序を形成する社会。
その発生は、近代の始まり、特に「古典主義」と呼ばれる時代における「監獄」の誕生に由来すると考えられる。
近代社会は犯罪者・秩序の違反者に対し、コミュニティからの追放や身体刑などでなはなく、監獄施設の中で「人格を矯正する」というアプローチを取るようになった。
→イレギュラーに規律を与えることで、個人を社会に取って「従順で有益な主体」に作り直すことを目的としている。
このプロセスは、具体的には「人々の身体を一定の座標に基づいた規則に従わせ、人間としての多様性を徹底的に均質化した上で、そのひとの人格と能力を操作する」とうように行われた。
→人間を外部から制御する「身体のテクノロジー」として権力が支配する。
イレギュラーに対する「矯正」だけではなく、日頃からこのように「社会の成員を身体において管理下に置き、そのことによって個人を社会の担い手(=社会的主体)に作り替える」技術体系に支えられた権力が「規律型権力」である。
→身体の「主体化=従属化;subjection」のプロセス。
この「主体化=従属化」は暴力による強制とは異なるものであるとフーコーは述べている。
→ディシプリンとそれを付与する過程は、「人間」に対する徹底的な研究や洞察によって裏付けられ、「人間のあるべき姿」として設計されているから。
「人間」の研究、プログラムされた環境
およそ「人間科学」と呼ばれるもの、社会学・心理学・精神医学など、は「権力によって監視可能な空間に個人を閉じ込め、観察することによって生み出された」とフーコーは言う。
→「人間」に対する科学的なまなざしが規律型権力を生み出した。
この身体のテクノロジーは、既に述べたように「監獄」という建築空間として具体化された。
→ベンサムの考案した「パノプチコン(一望監視装置)」と呼ばれるシステムがその典型。
パノプチコン
パノプティコン、もしくはパンオプティコン(Panopticon)は邦訳すれば全展望監視システムのこと。all「すべてを」(pan-)observe「みる」 (-opticon)という意味である。
イギリスの哲学者ジェレミ・ベンサムが弟サミュエルに示唆を受け設計した刑務所その他施設の構想であり、その詳細が記された『パノプティコン』が1791年に刊行されている。
このなかで収監者は「お互いの様子は分からない、監視者からは一方的に見られる」ように設計された建築環境に置かれる。
→中央の監視者からのまなざしは収監者を一人ひとり個別化・平準化する。やがて収監者はその「理性のまなざし」を内面化して自らの振る舞い(=身体)を秩序化するようになる。
→「身体的秩序」と「道徳的秩序」の双方を形成する空間プログラム。
このような「規律型権力」のシステムが導入されているのは監獄だけではない。
→「学校制度」という集団生活を学ばせる装置、「しつけ」という家庭内での規律の教育、などなど。
規律型権力からコントロール型権力へ
このように近代の原理となっていた「ディシプリン」と「規律型権力」だが、現代においてそのような社会の組織化を担ってきた機関や制度が危機に瀕している。
→しつけの崩壊、学級崩壊、医療体制の崩壊……。
規律型権力は、ひとつの規範・基準を身体的に刷り込むことによって社会の成員に主体化するという技術であったが、これは非常にコストが高い原理でもある。
社会が個人化・多様化・流動化して「ひとつの規範」が成立しなくなった時代において、この原理は機能しない。
→現代社会の成員をレギュレートするシステムは、「コントロール型権力」に映りつつあるのではないか?
「コントロール型権力」とは、フーコーの盟友でもあるフランスの哲学者ジル・ドゥルーズによって提案された、「社会の秩序化を外面的なデータに基づいた処理によって行う」社会のことである。
→人間の生活のあらゆる面を数値化・データ化し、客観化しながら「自己管理」していくことで秩序を生み出す。
→「一人ひとりが究極的には情報の集積・生物情報として、計算処理され、個人が常に検索可能な存在と化すというような世界」に私たちは住まい始めている。
補論:環境管理型権力
「規律訓練型権力」に次ぐ新しい権力のタイプとして、「コントロール型権力」とは別に「環境管理型権力」というものも考えられている。*1
環境管理型権力においては、行動環境に何らかの制約を加えることで個人の振る舞いをコントロールしようとする。
⇒極端な例で言えば「以下の質問に「はい」か「yes」で答えてください」というもの。
選択の主導権は個人にあるという体裁を取りつつ、「実際にできる行動」が制限されているため結果として選択も不自由になってしまう。
「相手が自ら望む行動を取ることが、社会にとっても優れている行動(社会の生産性を上げる行動)になるように、人間を創り変えること」が本質であり、個々人に支配されているという実感がない、あくまで「自分がやりたいこと」をやっているように思わされているという点がやっかいだといえる。
【今回の三行まとめ】
- フーコーは近代社会においてその秩序を構成する原理として「規律訓練型権力」による社会の成員の主体を考えた。
- 「人間」の研究に基づく「身体のテクノロジー」により最適にプログラミングされたプロセスを通じ、人々の心身を社会の「ディシプリン」に適合するように作り替えることがその本質である。
- 「ひとつの規範」が崩れた現代社会において、この規律型権力は成立せず、「コントロール型権力」と呼ばれる新たな原理に移行しつつあるのではないかと考えられている。
【今回の宿題】
- 「コントロール型権力」の中身。
……今回は比較的わかりやすくまとめられたか? もうすこしレイアウトやデザインに工夫する余地はあるかもしれない。
最後の補論はテキストにはありませんが、建築やっている時から度々聞いていたので補足しました。すごくディストピア的な権力原理。
コントロール型権力が、今風に言うビッグデータ的なものから人々の動きを管理するものらしいというのは分かったが、それがどう「秩序の形成」に繋がるのか不明瞭。
そもそも「秩序の形成」という見方が誤読なのかな?
それでは
KnoN(90min)
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*1:「管理」というワードが共通しているけど、別物だと思う。たぶん……。