ロラン・バルト(シリーズ現代思想ガイドブック) その8
昨日の夕方、指導教官の教授先生と自分の現状について面談しました。
こんな感じで違う分野に突っ走ってしまう学生はやはり一定程度いるようで、状況が許す限りはやりたいことをやればいい、ということに。
「本を読みたいという欲求を止めることは出来ない」という言葉も頂きましたし、とにかく一歩ずつ進んでいきたいと思います。
引き継ぎ
ロラン・バルト (シリーズ 現代思想ガイドブック)(グレアム・アレン・2006)
の
第八章 音楽と写真
をやります。
- 作者: グレアムアレン,Graham Allen,原宏之
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2006/04
- メディア: 単行本
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第八章 音楽と写真
これまでは主に文芸の領域におけるバルトの仕事を見ていた。
しかしその思想は広い領域に適用できる。ここでは音楽、写真という領域でのバルトの貢献を確認し、『明るい部屋』の検討への準備を行う。
奏でるという再生産
1970年代にバルトは音楽についての多くのエッセイを書いている。
この中で推進されているアイデアは「パフォーマンスとしての音楽」という観点である。専門家の音楽が「記録」として消費される文化傾向が進む中で、音楽に能動的に関わることを推奨している。
→音楽の愛好家は、レコードされたものをただ聞くのではなく、自らの手でそれを演奏してみるべき。
これはテクストの生産的な読書、反転的な読書の理論の音楽における適用だということができるだろう。*1
専門家が作った作品を、愛好家が自らの中で再生産的に受容することで文化的なものに触れる「快楽」を得ることが出来るのである。
→専門家が作り、演奏するものをただ聞くだけの消費は、いわば「パッケージング」された意味の受動的な受容である。そこにはシニフィアンとシニフィエの固定的な繋がりが呈示され、他のものに結びつける無限の可能性は失われている。
→「意味作用」ではなく「意味生成」を
……「聞くだけでなく、自分で演奏する」という意欲は、こうして主張されなくとも誰もが持っているように思われる。
確かにクラシック音楽をヴァイオリンやピアノで演奏してみよう、という人は現代では少なくなっているのかもしれないが、それでも気に入ったフレーズがあれば口ずさんだり、口笛や鼻歌で「再生産」することは多いだろう。
ポピュラー音楽ならば、それこそカラオケは「再生産」の喜びを体験するものであるし、アマチュア・バンドはお気に入りの楽曲のコピーから入ることが多いはずだ。
ニコニコ動画などで存在感を増している「歌ってみた」「踊ってみた」系の動画も同じ系統として位置づけることが出来る。
バルトはディートリッヒ・フィッシャー=ディスカウとシャルル・パンゼラという二人の歌手を比較することで、この意味生成の意味するところを説明している。
フィッシャー=ディスカウ
→表出的、演劇的、情緒的に明快で、受け手に取ってわかりやすい。
→「ドクサを伝達する」歌唱
→端的にいえば、「音楽の商業化」に適した特徴を持つ。
Dietrich Fischer - Dieskau - Gute Nacht from ...
パンゼラ
→バルトが「声の肌理」と呼ぶ、身体に由来する質を持つ。
→クリスティヴァの「ジェノ・テクスト(生成としてのテクスト)」という概念に関連している、らしい。*2
Charles Panzéra sings "L'horizon chimérique" Op ...
……一応YouTubeで音源を探して聞いては見たけれど、なにがどう違うのかさっぱりです。ここはよくわからない。
記号としての写真の特異性
バルトの思想の写真への適用は、音楽にしたものとは少し様相が異なる。
「写真が意味を産出するのは他の文書依存文化のメッセージと同じ流儀には見えない」からである。
……バルトも記すように、人間の記号の歴史の中で写真についてはどこか革命的なところがある。この革命的な要素は、外観上、写真が「コードを欠いたメッセージ」を産出することに関わっている。
文書ベースのメッセージは、アナロジーに依存していて、外観上、記号とその指向対象との間の一致あるいは相似がある。
(改行は筆者、傍点の代わりに強調)
他の記号は明示的な意味(デノテーション)と共示的な意味(コノテーション)の間の運動に依存して存在する。つまり指向対象とされているものとして、現実的に明示的なメッセージと暗黙の了解としてある共示的なメッセージの二つがコード化されている。
対して写真は、コード化されていない指向対象を伴って呈示されているように見える。そこにあるのは現実に存在する(した)明示的な対象のみで、共示的なメッセージが隠されているとは主張できないのである。
→「写真は、新たな形式で指向対象を創出することなく、単に字義的な指向対象を補足してそれを写真の映像として表象しているかのように見える」
しかし実際には写真の中にはコード化された共示的メッセージがあるということを、私たちはすでに確認してきている(その3における「フランス国旗に敬礼する若い黒人軍人」の例を見よ)
ここで明らかになっているのは、単に写真にもコード性があるということよりも、映像の明示的な意味の強烈さがイデオロギーの自然化の作用を果たしているということである。
→「ただそこにあるもの」を写したと主張することで、そこに込められたイデオロギーは隠蔽され、批判できなくなる。
映画スチールの持つ3つの意味レベル
写真映像の外観上非コード化された性質に対するバルトの応答は複雑なものではあるが、少なくとも二つの区別される側面を含んでいる。
ひとつ目は、写真の指向対象を扱う時は深い用心を要する、というものである。
デノテーションとコノテーションの関係について、他の記号とは異なるバランスがあることはすでに確認した。しかしやはり、「写真は単一の「そこにあるもの」を指し示している」という観念がすでに神話なのである。
そして同時に気をつけなければならないのは、厳密には「そこにある」ではなく「そこにあった」という時間性の問いを内包していることだ。これは『明るい部屋』の中で主要なパートを占める問いとなる。
……これは現代において特に意識されるべき点かもしれない。
Photoshopなどの画像加工ソフトが普及したことにより、写真が「真を写す」ものではないことには多くの人が気づいている*3。
写真で示されるデノテーションは、すでに「確かにそこにあった」ものではなくなっている。
文章や絵画で行われていた編集性が、技術の進歩により写真でも実現できるようになってきた、ということだろう。
ふたつ目は、写真とは何かという本質よりも、写真が利用されるあり方に対する関心、つまり「純然と類似に基づくメッセージが現実にあるかどうかよりも、アナロジーと指向性の観念を取り巻く神話」に対する関心である。
バルトはロシアの映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインによる作品を取り上げ、映画自体よりもそこから採ったスチール写真に注目する。
映画という媒体自体は「物語のコードへの依存と観客に受動的な同一化を生じさせる」やり方だとして評価していなかったが、そこから引き出したスチール写真はバルトが「映画的なもの」と呼ぶ性質を持っている。
→「物語と時系列に逆らい、読者を快楽の、開かれた、終わりなしシニフィアンつまり意味生成との関わりに巻き込むような、どこか前衛文学のラディカルなテクスト性にも似た機能」
つまりバルトはエイゼンシュテインのスチール写真に、「表徴」「明白な意味」「鈍い意味(or 第三の意味)という3つの意味のレベルを見ている。
表徴=明示的な意味。直接コミュニケートするもの。
明白な意味=共示的な意味。記号学的に一般に共有されているような読解。
鈍い意味=はっきりとは説明できないがたしかに存在する意味。受け手それぞれにより解釈が異なり、正解はなく無限の広がりを持ち得る。
この「第三の意味」がスチール写真を快楽のテクスト、そして享楽のテクストへと変更させ、それを味わう喜び(=意味生成のラディカルなゲーム)を提供するようにさせるのである。
【今回の三行まとめ】
- ここまでバルトが主に文芸に対して行ってきた分析は、多少の注意を必要としつつも音楽や写真の領域についても適用できる。
- 音楽においては、楽曲を自ら演奏してみることで「受け手による生産的な快楽」を経験できる。
- 写真は他の記号と比べて明示的な意味が強く、イデオロギーを隠蔽する自然化を起こしやすい。しかし「第三の意味」に目をやることで同様の快楽を味わえる。
【今回の宿題】
- 二人の歌手の違い
- フェノ・テクスト/ジェノ・テクストの意味
……今回はかなりわかりやすい内容だったな。参考動画探したり、途中で集中切れてお昼食べたりしたから時間かかったけど。
このくらいの負荷でやれれば、まとめている方としても楽しいですね。
次回はいよいよバルト最後の主著である『明るい部屋』についてやっていきます。あと少し。
それでは
KnoN(120min)
- 作者: ロランバルト,Roland Barthes,沢崎浩平
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1998/10
- メディア: 単行本
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*1:ロラン・バルト(シリーズ現代思想ガイドブック) その6 - KnoNの学び部屋
*2:クリスティヴァのフェノ・テクスト/ジェノ・テクストの解説は、申し訳ないが割愛する。
新鮮味がない割に、説明が入り組んでいて分かりにくい。
*3:そもそも原語の"photograph"は、"photo-"「光の」、"-graph"「かかれたもの」という意味であり、直訳するならば「光画」となるだろう。