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KnoNの学び部屋

落ち着きのない大学院生が専攻に関係ない(むしろそっちのけで)学んだコトを記録しておく場所

研究計画書:「わかりあう」ための技術

昨日の夜、ふと自分が関心をもっている様々なことが繋がりました。

このブログを始めたときにもいろいろ書きましたが、それがより整理されたというか、収まるべきところに収まったという感じです。

 

忘れないうちに形にし、これからの身の振り方についても考えてみようと思います。

 

アブストラクト

  御託は抜きにして一枚の図を張ります。

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図:研究計画書:「わかりあう」ための技術

 

 ここで書いてきたこと、あるいはこれから書こうと思ってきたことも載っているので、自分としてはこれだけで充分です。

 特に結論としては右下部分、『「他者」との相互理解のために、技術としての「情報の編集方法」を追究する』でまとめられています。

 

 しかし人に説明する場合も考えて、もう少し細かく文章というメディアで考えを起こしてみましょう。

 

人はいかにしてわかりあうことができるか?

 おそらく自分の発想の、最も還元した段階がここです。

 ここから考えを始めたという訳ではありません。考えていたことのそれぞれを繰り上げて行ったらここに行き着いたというだけです。

 

 あまり多くを語る必要は無いと思いますが、「わかりあいたい」というのは人間の根源的な欲求の一つだと思います。あえてその片面にだけ注目して、「自分のことをわかってもらいたい」と言っても意図している所は伝わるでしょう。

 では、なぜなかなか人は「わかりあえない」のか?

 

 ここでは「わかりあう」ということを「お互いの考え・思いについて充分に理解する」と定義します。

 思想・信条・感情・こだわり。いろいろなものの違いが「わかりあう」ことを妨げます。相手が何かを主張しても、その根拠・背景となるものを「知らない」「理解できない」から「わかりあえない」。

 このロジックの中では「相手の判断材料を全て取り込み、その思考をなぞる」ことができれば、相手のことを「わかる」ことができるでしょう。100%の意味で「相手の気持ちになって考える」ということです。

 

 それはあまりにも現実離れした机上の空論です。仮に成立してしまったとしたら、そこにいるのはもはや人類とはいえない別の何かでしょう*1

 しかし100%ではなくとも、「充分に」理解するように努力することはできます。自分と相手の間にある垣根を低くすることはできます。現実的な範囲での「わかりあい」です。*2

 

 ここでもう一つの前提として、「存在はすべて情報の集合としてある」という考えを導入します。

 そうすると理解すべき「相手」というのは、「相手という存在を構成する情報群」となり、「取り込む」というのは「情報を受け取る」というように言い換えられます。

 となると問題は「いかにしてこの膨大な情報をやりとりするか」です。

 

大量の情報を効率よく伝達する

 前節で「人と人がわかりあう」ためには「(お互いの考えという)膨大な情報を相互に伝達」すればいいと説明しました。ではその具体的な方法としてはどんな方策が考えられるのか。

 一度にやりとりされる一塊のもの(表現物)に対し、「そこに込められる情報量をできるだけ多くする(情報の多層化)」と「伝えるべき「違い」のみを抜き出し情報を圧縮する(情報の純化)」という2つのやりかたがある、というのが私の考えです。

 

 この2つは実は本質的には同じものです。「できるだけ多くの情報を伝えたい、でもやりとりする情報はできるだけ小さくしたい」というジレンマをそれぞれ解決していこうというアプローチであり、送り手から見るか受け手から見るかぐらいの違いでしょうが、それぞれについてもう少し詳しく突っ込んでみます。

 

 一つ目、「情報の多層化」について。

 自分自身は情報の発信方法として、おもに文字媒体のメディア(ブログ、小説)を選択しています。これは「日本語」という多くの人が使う情報コードを用いるため誤解を生じにくく、また作成に特別な技術が要らないという利点を持ちますが、同時にその受容速度が受け手の閲覧速度に依存するという特性があります。自然体で語れる分、どうしてもボリュームが多くなってしまいがちなのです。*3

 たいして絵画や音楽はより短時間で受容できるメディアです。絵画はそれこそ一目見るだけでもかなりの情報が伝わりますし、音楽も現代のポップスの楽曲は一曲数分から十数分というオーダーで作られています。

 これらのメディアが小説などに比べ情報が少ないかというと、必ずしもそうとは限りません。美術評論家は一枚の絵について何十メージにもわたる論文を書けますし、音楽についても同様です。

 文字、絵、音楽などなど。メディアにも色々ありますが、重要なのは「それらのメディアを重層させることで時間辺りの情報量が増える」ということです。

 例としてニコニコ動画にアップされていた、とあるボーカロイド楽曲のPVについて考えてみます。*4

 

 たかだか4分強の動画ですが、音楽(楽器)・歌詞(ボーカル)・映像・視聴者コメントという4つのレイヤーで情報が再生されています。しかもそれぞれが(私が持っている)ほかの情報と繋がり、想起させ、あっというまに「世界」を立ち上げました。このとき私の中で立ち上がった情報群(意味の内部反響)を文字媒体のみで表現しようと思えば、おそらく数万字はある小説を書くことになったでしょう。

 このように、「4分強の動画を見る」体験の情報量と「数万字の小説を読む」体験の情報量は(誤解を恐れずに言えば)「等価」なのです。

 「わかりあう」ための膨大な情報量を扱うとき、このマルチ・メディア性を使わない手はありません。*5

 

 「折り畳み」も「メタ情報」も言いたいことは同じです。一つの表現物に、どれだけの経路で情報を届けさせるか。文章に多重性を持たせようとすると、私の表現では「折り畳み」になりますし、そもそも「どのような表現方法をとったか」すら意味を持つと考えると「メタ情報」の概念が使用されます。

 

 この方策に関して既存の研究で関連しそうなキーワード(のごくごく一部)として「エクリチュール」や「記号論」を挙げておきます。まだまだ勉強がたりませんが、バルトが私のアンテナに引っかかったのはこのあたりだったと言うことです。

 

 二つ目、「情報の圧縮(純化)」について。

 この記事を書いているうちにより適切な言葉が見つかったのでやや用語に混乱が見られますが、「いかにして表現物のボリュームを減らすか」という問題になります。

 私たちが普段やりとりする情報の中で、本当に「意味」のある情報は、比率としてはそんなに多くありません。多くは定型文であったり、「どのように表現するか」を宣言するメタ情報だったりします。*6

 このような「構造」「形式」の情報を共有し、それを呼び出す合図さえ決めておけば、やりとりするのは「本当の情報」とその合図だけ、ということになります。

 おそらくこれは「情報圧縮」という発想の中では基礎中の基礎であることでしょうが、「物語」がこの「合図」になりうるという発想は注目に値します。「物語」を共有することで、なにも言わなくとも自然と皆が自分のなすべきことを自覚する(してしまう)ということに繋がるからです。

 

 また情報の受容プロセスにおいて、「意味の内部反響」という考えを私は持っています。上述したように、私は一本の動画から多岐にわたる情報を連想しました。それは受け手それぞれのなかの情報ライブラリから立ち上がるものであり、ある意味で「受け手が自らにふさわしいかたちで表現物を受容した」といえます。

 「わかりあう」ためには、この「受容の多様性」は邪魔になってしまうかもしれません。しかし一つの表現物から複数の次元の情報群を呼び出せる可能性については、もっとポジティブな見方ができるのではないかと思います。

 

 こっちのほうに関連するキーワードとして「構造分析」や「表現の工学化」を挙げておきます。

 

 おまけとして、といってはアレですが。これらの情報に関する見方を、現在進行形の事象の分析へ適用する例として、「引用と二次創作の生態系」というテーマが考えられるでしょう。

 「引用」についてはそのうち一本記事を書こうと思っていましたが、さらに二次創作という現在の文化産業で大きな割合を占める創作様式と絡めることで、「いかにして作品(一個の表現物)に他からの情報のリンクを張るか」という観点で表現の多層性を加速させる営みとして分析できそうです。

 

 さらにこれに関連して、創作行為が無償の営みとなりつつある中での経済システムにも興味はあるのですが、大きく脱線しそうなのでここまでということで。

 

「異質な他者」との相互理解

 ここまで前提として「人と人」のやりとりを考えながら論を進めてきました。

 しかし私のアタマにあるのは必ずしも「人と人」だけではありません。むしろ発想として生まれた時期としてはこちらのほうが古いくらいかもしれません。

 人ではない「異質な他者」とどう「わかりあって」いくのか。簡単ながら説明します。

 

コンピュータ

 「人間の思考とコンピュータ(機械)の思考は異なり、そのギャップを埋めるためにいろいろと苦労している」という話*7は『知の編集工学』を学んでいるときにやりました。これはもうそのときの話のまま、これまで述べてきたような「情報のやりとり」をコンピュータにもやらせるにはどうしたらいいかという話です。

 <エディトリアル・コンピューティング>みたいなものができれば、人と機械の間の情報のやりとりもずっとスムーズになることでしょう。

 

身体空間

 小説と並び、自分のルーツともいえる分野です。建築学科に進学したときの自分の志「人と空間の関わりについて考えたい」は、卒論のサイン計画についての研究と修士一年のときの駅の利用しやすさの向上についての検討を経て、「空間を利用するために必要な情報を、いかに効率よく利用者に伝えるか」という形に具体化しました。

 下記の「プロダクト」の項とあわせて、既存の言葉を使うなら「アフォーダンス」などの概念が強く結びついていると思われます。

 

プロダクト

 空間は自分を包むように存在しているもの。プロダクトは自分の手のひらの中に存在しているようなものです。といっても実在の「もの」だけではなく、例えばWebサービスのユーザー・インターフェースなども含みます。

 取扱説明書を読まなければ動かせもしないプロダクトは失敗作です。そこにあるということだけで、想定された(あるいはそれ以上の)「使われ方」をアフォードする。それがプロダクトのあるべき姿だと考えます。これはプロダクトとの「対話」であり、プロダクトとの「わかりあい」です。

 

結び

 やはりというか、文章にすると長くなりました。疲れました。

 言うまでもなく、これでもまだ考えている・考えてきたことの一部です。しかしそのエッセンスは冒頭の図にまとめられています(情報の多層性と圧縮)。

 似たようなことを考えてきた人には、それぞれ「あーあるある」みたいなことが起きていたでしょうし(意味の内部反響)、「要約→背景→核心→応用→結」という典型的な論理構成に則って書いたことで全体の構成がわかりやすくなっていると思います(構造の共有)。

 ……とはいえぶっつけで書いたから多少読みにくいところもあるな。「大量の〜」以降の内容は、一旦最初の「人はいかにして〜」の内容と切り離して読んだ方が理解しやすいかもしれません。

 このような、誰もが日常的に行っていることを改めて考えることにどれほどの意味があるのかはわかりませんが、気になってしまうのだからしょうがありません。

 

 考えがまとまったところで問題はここから。やりたいことをやるためのどこでどうすればいいのか。悩みはつきませんが、今回はここくらいで。

 

それでは

 

KnoN(180min)

*1:新世紀エヴァンゲリオン』の人類補完計画なんかが、まさにこれですね

*2:あるいは『知の編集工学』で触れた<エディトリアリティ>の考えなどは、「主体と客体の境界を曖昧にする」という意味で同じことを指しているのかもしれません。

*3:もちろん文字メディアにも優れた圧縮が効いているものはあります。伝統的には短歌や俳句などの定型詩がありますし、最近だと商品のキャッチコピーなどは「濃い」表現だと思います。

*4:有名なやつですが、見たのは昨日が初めてでした。

トヨタかどこかの自動車のCMにもピアノ・アレンジが使われてますね。

*5:ここで「時間当たりの情報量」にこだわっているのは、世の中にある情報が多すぎることに対する危機感(あるいは焦り)からです。

*6:このあたりはプログラムに親しんでいる人の方が詳しいでしょう、多分。

*7:知の編集工学 その6(前編) - KnoNの学び部屋